仙台育英戦で選手に指示を出す日本文理の大井道夫監督(左)=17日、阪神甲子園球場、細川卓撮影
31年間にわたって、大井道夫監督(75)が率いてきた日本文理(新潟)が17日の第3試合で敗れた。引退を表明していた大井さんにとっては、最後の試合。打撃を重視し、新潟県勢として初めて準優勝を達成した名将は「子どもたちがここまで連れてきてくれた」と笑顔で甲子園を後にした。
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試合は仙台育英との息詰まる投手戦。0―1で迎えた九回表、先頭打者が出塁。バントで送らず、安打でつなぐ。2死一、三塁で稲垣豪人君(3年)が打席に立つ前、大井さんは「つなぐ野球が日本文理の代名詞。つなげ」と送り出した。フルスイングをしたが、空振り三振。試合後、大井さんは「あと1本が出なかった」と残念がった。
1959年、宇都宮工のエースとして選手権大会決勝に進出した大井さんは延長十五回まで投げたが、相手から追加点が奪えずに敗退。その経験から、監督としては打撃を徹底的に追求した。
日本文理の監督に就任したのは1986年秋。当時は無名校で、グラウンドも石ころだらけ。その年入部した元ロッテの吉田篤史さん(46)は「練習量がとにかく増えた」と振り返る。
「低めの球なんか振るな!」「ちゃんと振り切れ!」。練習では口うるさいほど選手に言い続けてきた。フライを上げる選手には「全然ダメだ!」「打つのやめろ!」と手厳しい。
97年に選手権大会への初出場を果たし、2009年には決勝進出。6点差がついた九回表、2死走者なしから打線がつないで5点をかえし、甲子園の歴史に残る名試合となった。「あれで私のやりたかったことが形になった」と語る。
伝統は今のチームにも受け継がれ、新潟大会では6試合47得点。17日の試合後、主将の笠原遥也君(3年)は「どんな場面でも自分たちを鼓舞してくれた。まだ、一緒に野球をやりたかった」と語った。
最後まで、つなぐ野球を目指した大井さん。「本当に幸せだ」と監督生活を締めくくった。(川島大樹)