セミ時雨の中、近くの公園を老犬ハッピーと散歩する秋山節子さん=2004年7月
■「恍惚(こうこつ)の人」から「希望の人びと」へ:3(マンスリーコラム)
認知症の本人たちによる「当事者発信」というと、若年性認知症の人の話だと思う人が多いのではないだろうか?
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マンスリーコラム
実は、違う。今から10年以上前、認知症を「痴呆(ちほう)」と呼んでいた時代に、「発信」の扉を開いた一人が、当時70歳だった秋山節子さんだ。
2004年、当事者発信に注目した企画「私はアルツハイマーです 語りはじめた人たち」を朝日新聞の生活面で連載した。このときはご家族の意向もあって匿名だったが、今年2月に出版した拙著「ルポ 希望の人びと ここまできた認知症の当事者発信」では、ご家族の了解も得て実名で紹介した。節子さんは3年前に亡くなられたけれど、私は「秋山節子」さんの名前と、先駆けとしての勇気ある行動を歴史に残したかった。
■夏の日の出会い
初めて訪ねたのは04年夏。門柱のベルを押すと、玄関から年配の女性がにこやかに現れた。
「わたくしのために、いらしてくださった方?」
アルツハイマー病と診断された節子さん(当時71)の取材を、夫の好胤(よしたね)さんを通してお願いしたら、快く引き受けてくださった。
張りのある声、てきぱきとした受け答えに、美しい言葉づかい。アルツハイマー病と診断されたとは、言われなければわからない。私が名刺を差し出すと、ふっと表情がゆるんだ。
「まあ、きれいなお名前ね。久美子さん。久しく美しい子ですね。私なんか、節子。3月生まれなのでおひな様のようにとね。でも母がある日『やっぱりウソはだめね』って申しましてね。実は3月2日生まれなのに、節句は3日だからって。でもそんなぁ、だれの子なのよ。きれいな子に生まれるわけないじゃないのってね」
好胤さんが横で笑い出した。
「結婚するとき、義母が『節子はよくしゃべるから、我慢して相手をしてやってください』って言ってましたね」
私も一緒に笑ってしまった。忘れられない出会いだった。
■「これはチャンス」
節子さんはそのころ、介護や医療関係者の間でちょっとした有名人だった。
前年の03年9月、自宅のある茨城県のつくば国際会議場のホールで、800人の聴衆を前に、日本で初めて病名を明かして本人が体験を話し、「初めて公の場で語った勇気の人」と注目された。
世界アルツハイマーデー(9月21日)を記念した集いで、会場では名前も隠さなかった。異変に気づいたときの不安、病名を知らされたときのショック、新薬や早期発見への願いなど、スピーチは15分ほどにわたった。
地元の「呆(ぼ)け老人をかかえる家族の会」からの誘いがきっかけだった。当時この会の顧問だった、主治医で筑波大学教授(現在は名誉教授)の朝田隆さんにも「本人の話をきけば、その苦しみや実態がわかってもらえる」と勧められた。
節子さんは「これはチャンス」と引き受けたという。
「患者は本心を言いたくてもなかなか言えない。話せるうちに、ぜひ、きいてもらいたい。アルツハイマーも、がんと同じ病気なんだから、恥ずかしいことでも何でもないですもの」
夫は「元来ほがらかでおしゃべりだけれど、世間体を気にする方なので、まさか」と、妻の反応に驚いたそうだ。
■初めての異変
私のインタビューに、「あれは大変な恐怖でございました」と、節子さんは初めて異変に気づいたときのことを振り返った。
4年前の00年、常磐線の車中…