津波から逃げるときに登った裏山の前で、自らの体験を語る只野哲也さん=1月28日、宮城県石巻市
東日本大震災から間もなく7年。津波で児童74人、教職員10人が犠牲になった宮城県石巻市の大川小学校が今春、閉校する。津波に流され、生き残った4人の児童の一人で、高校3年の只野哲也さん(18)が故郷や家族への思いを語った。
毎年3月が近づくと、ぴりっとした寒さやちらつく雪が胸を締めつける。「あんときも、こんな寒さだったっけ」。7年前のあの日から、1年の始まりは1月1日ではなく、3月11日に変わった。
大川小から歩いて15分ほどの自宅で祖父母と両親、妹の6人で暮らしていた。5年だった只野さんはいつものように、教室で帰りのあいさつのために立ち上がると、船の上に放り出されたような揺れに襲われた。
先生の指示で近くの橋のたもとへ避難を始めた。すると、目の前に見えていた民家が土煙をあげて崩れるのが見えた。「あ、やばい」。すぐに元の道を引き返した。後ろからゴーッという地鳴りが迫ってくる。体の奥まで震動が伝わり、周りの叫び声も、自分の足音も、何も聞こえなくなった。突きあたりの裏山を無我夢中で登った。突然、押しつぶされるような重さが背中にのしかかり、そこで意識が途切れた。どのくらい気を失っていたのかわからない。山腹に埋もれていたところを救助された。
学校も自宅も、水の底に沈んだ。津波は、漁師だった祖父の弘さん(当時67)、母のしろえさん(同41)、二つ年下の妹未捺(みな)さん(同9)を奪っていった。「どうして逃げる時、無理やりでも妹の手を引っ張らなかったんだろう」と悔いる。地震を心配し、しろえさんは学校に迎えに来た。只野さんが自分のヘルメットを渡すと「いいからかぶっていなさい」と押し戻された。「ヘルメットがなかったら俺も危なかった。お母さんのおかげです」。友達の葬式に出るたび、泣き崩れる家族を見て、「俺よりも、あの子が助かれば良かったのに」と思った。
■生き残った児童で唯一、語り続…