飛鳥寺西方遺跡で出土した建物跡とみられる柱の穴。東西方向に細長い建物があったと推定される=21日午前、奈良県明日香村、水野義則撮影
大化改新の立役者、中大兄皇子(なかのおおえのみこ、後の天智〈てんじ〉天皇)と中臣鎌足(なかとみのかまたり)が蹴鞠(けまり)を通じて初めて出会った「槻(つき)の木の広場」とされる奈良県明日香村の飛鳥寺西方(せいほう)遺跡で、飛鳥時代(7世紀)とみられる1棟の細長い建物跡がみつかった。村教育委員会が21日発表した。「日本書紀」に登場する、辺境とされた地域の人たちをもてなした宴会施設の可能性も指摘され、広場の具体的な姿がみえてきた。
村教委によれば、国内最古の本格的寺院とされる飛鳥寺の西門跡から北西約140メートル離れた調査地で、16個の柱の穴(1辺90センチ~135センチ)を確認。少なくとも東西19・2メートル、南北4・8メートルの建物があったとみられる。
槻の木の広場をめぐっては、日本書紀が7世紀後半に東北地方の蝦夷(えみし)や南九州の隼人(はやと)らを招き、宴会を催すなどで接待したと記す。約300メートル北には、噴水機能を持った石造物「須弥山石(しゅみせんせき)」などが出土した石神(いしがみ)遺跡がある。石神遺跡では四方を細長い建物に囲まれた建物跡が出土し、こちらはより大規模な宴会施設だったとみられている。
猪熊兼勝・京都橘大名誉教授(考古学)は「今回の建物は宴会施設の可能性があり、日本書紀に記録されたような蝦夷や隼人らをもてなし、相撲をとった場所かもしれない。広場は様々な儀式が行われる機能的なエリアだった」とみる。
現地説明会は25日午前10時~午後3時。当日の問い合わせは村役場(0744・54・2001)。(田中祐也)