日本の新幹線が初めて海を渡った先は、台湾だった。先行する欧州勢をおさえて輸出に成功した背景には、日本との関係を重んじる、あの大物政治家の姿があった。
1990(平成2)年ごろから、台湾海峡をはさんで二つの高速鉄道計画が動きはじめた。
北京―上海(1318キロ)と台北―高雄(345キロ)である。
日本にとって、いずれも縁が深い土地だ。第2次世界大戦前、中国東北部に「満州国」を建国。南満州鉄道(満鉄)が、最高時速100キロを超える「あじあ号」を走らせた。新幹線のルーツともされる。
一方、19世紀末から日本の統治下にあった台湾の在来線は、基本的に日本の規格で建設された。中台の構想が浮上したころから日本企業は食指を動かした。
ほかの地域へのインフラ輸出では連敗した。一足早く進んでいた韓国初の高速鉄道ソウル―釜山(410キロ)が93年、仏・TGVに決まる。97年夏、中国の巨大プロジェクト、三峡ダムの発電設備も日本企業連合は欧州勢に敗れた。
世界にさきがけて時速200キロを超える高速鉄道「新幹線」を走らせた日本。中台の商戦は「負けられない戦いだった」と運輸省(当時)の事務次官を務めた黒野匡彦氏は振り返る。
「黒野次官、台湾へ行ってもらえないかな」
橋本龍太郎首相から電話が入った。黒野氏は驚いた。中国への配慮から、政府高官が外交関係がない台湾を訪ねるのはご法度とされていたからだ。中国には新幹線を強烈に売り込んでいた日本政府だが、台湾では民間が中心だった。
「外交上迷惑にならないなら参ります」。黒野氏はそう答え、政府も輸出に向けてアクセルを踏んだ。
実は、97年の9月、台湾は優先交渉権を独仏連合と組んだ「台湾高鉄」に与えていた。表向きは事業費の差だった。沖縄担当の首相補佐官、岡本行夫氏は台北で、李登輝総統に幾度も会った。「日本は政治家や企業は熱心だが、政府は来ない。姿勢を示してほしい」。李氏の意向を確認し、首相や梶山静六・元官房長官も動いたのだ。
台湾側は半年もしないうちに、日本の芽が消えていないことを伝えてきた。JR東海も本腰を入れる。98年秋、新幹線の専門家である田中宏昌副社長を送り込んだ。欧州勢から横やりを入れられながら、企業の担当者も走り回った。新幹線商戦は、技術や価格だけでなく、外交や国際宣伝力も加味した「知的格闘技」(田中氏)だった。
99年末の入札で、車両や信号など中核のシステムは一転、日本に委ねられることになった。
逆転勝ちにわいた。
直前の台湾大地震やドイツでの高速鉄道の死亡事故も、日本に有利に働いたとされる。親日家で知られる李総統の影響力を台湾側は公式には認めない。だが「意向はみんなわかっていた」(高速鉄道事業にかかわった台湾財界の重鎮、黄茂雄・東元集団会長)とする見方が一般的だ。
2004年5月。ブルーのラインから南の島らしくオレンジ色に姿を変えた700系が神戸から高雄へ向かった。新幹線が初めて海を渡った。生産した川崎重工業兵庫工場では事前に、晴れやかな式典で祝った。
07年1月の開業以来、定時発着率は高く、死亡事故もない。島内の航空路線はほとんどなくなり、人々の生活を大きく変えた。台湾高速鉄路の江耀宗会長は言う。「新幹線の輸出に台湾も日本と協力して取り組みたい。一から立ち上げた経験を伝えられる」
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〈吉岡桂子〉 朝日新聞編集委員。1989年入社。東京、大阪で経済を中心に取材し、2013年まで約7年間にわたって北京、上海で中国特派員。現在はバンコクを拠点に取材をしている。