生前の原口由美子さん(右から2人目)を囲み、アルバムを見て談笑する桑原博子さん(右)らスタッフ。ホームは社会福祉法人「同愛会」が営む=横浜市、2018年2月
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最期の時が近づいていた。
知的障害がある男女5人が暮らすグループホーム「森の泉1」(横浜市)の一室。ベッドに横たわる原口由美子さんを、ホームのスタッフや仲間、訪問看護師らが見守っていた。副代表の桑原博子さん(69)が原口さんの体を抱きかかえ、「由美ちゃん、由美ちゃん」と語りかける。
弟の清之さん(59)夫妻が駆けつけた11分後、ふー、と息をして、眠るように亡くなった。小さな体は桑原さんに抱かれ、細い手は仲間の手につながれて。昨年7月22日午後2時9分、享年65歳。老衰だった。
清之さんは、「姉は幸せだったと思います。ありがとうございました」と穏やかな表情で言った。病院に移っての延命治療はせず、16年暮らした「家」で、なじみの人々にみとってもらうのが一番の幸せ――。家族も望んだホームでの大往生だった。
原口さんは養護学校高等部を卒業後、クリーニング作業などに就いたが、両親が高齢になったこともあり、38歳から知的障害者の入所施設(定員70人)で暮らし始めた。48歳の時、少人数で手厚いケアを受けやすい、この定員5人のグループホームに移った。
言葉は少なかったが、身の回りのことは自分でできた。日中は近くの通所施設で歌や踊りを楽しんだり、仲間と山登りや花見に出かけたり。社交的で明るい原口さんは、リーダー的存在だった。
しかし、50歳ぐらいから深夜に自室から抜け出すなど行動に変化が表れ、53歳の時に認知症の診断。着替えなどの介助が必要になった。59歳のころから外出時は車いすになり、60歳の時、食べ物を口に入れるのが困難になった。医師からは「燃え尽きるように、お別れになります」と告げられた。
家族はホームでの最期を望んだが、高齢者の介護、ましてや「みとり」は経験したことがなかった。それでも「最晩年を生きる人のよりどころに」という法人理事長の信念の下、試行錯誤が始まった。
入居者の高齢化進む
知的障害者が暮らすグループホームは1989年、地域での自立生活を進めるために、当時の厚生省が補助事業として制度化した。今は障害者総合支援法で、障害種別を限らずに福祉サービスとして位置づけられている。入居者は原則10人以下で、スタッフは主に朝夕の食事作りや介護などを担う。入居者は日中、通所施設などに出かけるのが基本だ。
しかし、自分や親が高齢になった知的障害者らが入所施設や自宅からホームに移るケースが増え、入居者の高齢化が進む。厚生労働省によると全てのグループホームの入居者約12万人(18年10月時点)のうち、65歳以上は約13%。今後も増えるとみられ、手探りでみとりに取り組むホームが少しずつ増えている。
初めての本格的な介護やみとりにあたり、「森の泉」では交代で勤務に入るスタッフ約20人が、褥瘡(じょくそう)をつくらない寝方や誤嚥(ごえん)しない食事介助、本人本位の認知症ケアなどを専門家から学んだ。24時間対応の訪問医や訪問看護師とも契約。訪問入浴など介護保険サービスも活用した。
幾度となく危機を救ったのは、課題を話し合い、創意工夫を惜しまなかった、半数以上が近隣のベテラン主婦というスタッフたちの「チーム力」だった。原口さんが食べられなくなった時、口や舌の動きを観察し、舌の上にミキサー食を塗ると食べられることに気づいた。呼吸が楽になる姿勢の角度の写真や、食べやすいおかゆゼリーの温度を書いた紙を貼り出したりした。
知的障害者をどうみとるのか。財政支援や専門人材が乏しい中、試行錯誤が続く実態に迫ります。
ドア半開き、呼吸うかがう
最も緊張したのは、呼吸が苦し…