石川県・津幡高校在学中の2014年冬、交通事故で意識不明の重体に陥った元球児が、4年半ぶりに母校のグラウンドに戻ってきた。まひが残る体で拳を突き上げ、夏に挑む後輩にエールを送った。一歩ずつ、進もうと――。
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懐かしい土のにおいがするグラウンド。車いすで踏み込むと、西宮隼人さん(22)は、たちまち笑顔になった。「津幡」が胸に入るユニホームと、チームの頭文字「T」をあしらったロゴの帽子。かつてのチームメートに車いすを押してもらい、グラウンドをゆっくり巡った。
6月15日。津幡高校野球部のグラウンドに、OBや保護者らが集まった。夏の大会を約1カ月後に控えたチームの激励会だ。
応援団員による「フレー、フレー、津幡」に加え、「フレー、フレー、隼人」のエールもグラウンドに響いた。隼人さんも右手を空に突き上げた。
母の珠実(たまみ)さん(45)は「まだまだ出来ないことが多いけど、出来ることが一つずつ増えていく。生きていることが奇跡なのに、新しい奇跡が毎回起こる」。
小学1年のときに野球を始め、津幡高校では捕手として活躍した。同級生の宮前遥さん(23)とバッテリーを組み、13年秋には県大会で優勝。最後の夏こそ初戦で敗れたが、バッテリーはそろって大学野球のスカウトからも注目されていた。隼人さんは、県高野連の優秀選手にも選ばれた。
宮前さんは「隼人は誰より練習熱心、野球熱心で、責任感も強かった」。いつも練習で最後まで居残り、三塁側ベンチ脇で素振りをしていた姿を覚えている。互いに信頼し、「隼人のサインには、ほとんど首を横に振らなかった」と言う。
そんな隼人さんが事故に遭ったのは、野球部を引退しておよそ半年後、14年12月13日だった。自転車でアルバイト先に向かう途中、交差点で軽乗用車にはねられた。野球部の北橋義仁監督は翌日、出張から戻って病院に向かった。「突然過ぎて理解出来なかった。完全に面会禁止と聞かされ、初めて深刻な状態だと分かりました」と振り返る。
意識不明の重体だった。意識が戻るのか、一生寝たきりになるのではないか、先は見えなかった。珠実さんは「いっそあのまま……と、思い詰めたこともありました」と打ち明ける。
たくさんの友人、知人がお見舞いに駆けつけた。
野球部の保護者の1人が、隼人さんと交わした会話を教えてくれた。
「大学でも野球をしないのか」。尋ねると、隼人さんはこう答えた。「お母さんにこれ以上苦労はかけられない」
普段言い合いばかりしていた息子は、子ども4人を1人で育てる母を気遣っていた。「隼人の頑張りに、そして優しさに、母親として全力で応えないと」。珠実さんは誓った。
意識が回復した後、地道にリハビリを続けてきた。少しずつだが口を動かし話せるようになり、ご飯を食べられるようになった。隼人さんはいま、体にまひが残るものの、右手でSNSのメッセージを送れるまでに回復した。夏に臨む後輩たちにも、その右手で「つばた がんばれ はやと」と書いた色紙を贈った。
激励会で、元チームメートの宮前さんらは隼人さんにバットを贈った。恩師の北橋監督はそこに「一歩ずつ」と書いた。
隼人さんの次の目標は、自分で歩けるようになることだ。(岡純太郎)