広島平和記念資料館の地下から発掘された品々。高熱で変形した瓶や食器、歯ブラシ、ビー玉、万年筆も出てきた=広島市中区、青山芳久撮影
オバマ米大統領が27日に訪れる広島市の平和記念公園は、かつて商店や住宅が並ぶ繁華街だった。一発の原子爆弾が一瞬にして多くの命を奪い、町を壊滅させた。平和を願ってできた公園。オバマ氏はここで何を感じ、何を語るのか。遺族たちも見つめている。
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■焼け落ちていた生家
「足元に人々の暮らしがあったことをかみしめながら歩いてほしい」
今は平和記念公園になっている場所に生家があった浜井徳三(とくそう)さん(81)=広島県廿日市(はつかいち)市=は、オバマ大統領にそう望む。爆心地から200メートル。理髪店を営んでいた父の二郎さん(当時46)、母のイトヨさん(同35)、姉の弘子さん(同14)、兄の玉三(たまそう)さん(同12)を原爆で失った。
浜井さんは広島県宮内村(現・廿日市市)に疎開していて無事だった。原爆投下の2日後、たどり着いた生家は焼け落ちていた。疎開先に戻って「誰もおらんかった」と告げ、涙があふれた。投下の前日、父母と姉が疎開先を訪れてくれたのが最後となった。
当時、平和記念公園一帯の中島地区(7町)には6500人が暮らしていた。11歳だった浜井さんは、原爆ドームの前身・広島県産業奨励館のらせん階段の手すりで滑って遊んだ。元安川でハゼを釣り、ボートに乗ったことも覚えている。
終戦4年後の1949年に制定された広島平和記念都市建設法により、一帯は56年、原爆死没者の慰霊と恒久平和を祈る公園に生まれ変わった。公園ができてからも家族を捜して歩いたという浜井さん。今も「誰かに会えるかもしれない」と思うことがある。
被爆70年を前に昨年6月、心に区切りをつけ、ようやく墓を建てた。「昭和二十年八月六日亡」。墓石に一家4人の名を刻んだ。「これでやっと安心して眠ってもらえる」。墓前に線香をあげ、つぶやいた。
本籍地の「中島本町33の1」は今も変えていない。2人の息子や孫も同じだ。「僕のふるさと。原爆で何が起きたかをオバマさんにも知ってほしい」