慰霊の日の早朝、無名戦没者の遺骨を納めた魂魄(こんぱく)の塔に手を合わせ花を供える人=23日午前6時33分、沖縄県糸満市、上田幸一撮影
一心に手を合わせる人がいる。石碑に刻まれた名をさする人がいる。慰霊の日の沖縄に、夏の日差しが注いだ。沖縄県糸満市にある「平和の礎(いしじ)」には早朝から沖縄戦の犠牲者を悼む人たちが次々と姿をみせ、71年前の戦禍と戦後の歩みに思いをはせた。
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■生き延びた女性、元米兵の事件に涙
糸満市に近い八重瀬町の新垣秋子さん(78)は夫と訪れ、沖縄戦で亡くなったいとこの冥福を祈った。
母と兄弟2人、壕(ごう)に身を隠して戦争を生き延びた新垣さんにとって、一番つらくて恐ろしい体験は「収容所に入ってから」のことだった。
米兵たちが銃をもって収容所のかやぶき小屋に押し入り、女性を連れて行くことがしばしばあった。若い女性は身を守ろうと炭を顔に塗ったり、幼い子を背負ってみせたりしたが、米兵は容赦なかった。
ある時、新垣さんをおぶっていた15歳の少女が無理やり連れて行かれた。数時間して戻ってきた少女は「舌をかんで死にたい」とむせび泣いた。
うるま市の女性を暴行して殺したなどとして米軍属の男が逮捕された事件で、新垣さんは収容所の体験を思い出した。19日に那覇市で開かれた、事件に抗議する県民大会にも夫と参加。「戦争が終わって70年たつのに、今でもこんなことが起きるのかと悔しくて」。礎の前で、涙をぬぐった。
「戦争さえなければ、一緒に生きられたね」。南城市の我喜屋宗監(がきやそうかん)さん(79)は、2人の兄とめい、祖母の名が刻まれた石碑の前で何度も手を合わせた。
米軍の沖縄本島上陸後、本島南部をさまよったあげく、米兵にとらえられた。
住民が集められた村である夕方、人家に近い畑で若い女性が食料を探していた。軍服を着た白人が声をかけて近づき、畑に女性を押し倒した。しばらくして男は立ち去った。「後になって、強姦(ごうかん)されたのを知った」
戦後、近所づきあいの中で米国人の知人もできた。米国に悪い印象はない。だが、うるま市の事件では、あの記憶や、戦後繰り返されてきた数々の事件を思い出した。「また起きたかと、怒りを覚えた。同時に、まだ沖縄は戦争が終わっていないと感じた」
■戦争知らない世代も
慰霊の日の礎には、戦争を知らない世代も訪れた。
沖縄国際大に通う那覇市の渡口美希さん(20)は、曽祖父母ら3人の刻銘にさんぴん茶をかけ、手を合わせた。「戦争を繰り返さないよう頑張るね」
大学に入ってから3年続けて、礎のすぐ近くでこの日開かれる沖縄全戦没者追悼式に足を運んでいる。石碑に名が刻まれている親戚は10人ほど。だが、それぞれがどこでどのように亡くなったのかは知らない。「祖父母は知っていると思う。でも聞きにくいんですよね」と話す。
大学の授業で学ぶうち、沖縄戦当時を思う機会が増えてきた。いずれは自分も親世代になる。「その時には、子どもたちに戦争のことを伝えられるようになっていたい」(奥村智司、田中久稔、吉田拓史)