いずれも思い出食堂「白いご飯」の一コマ
読者の食の思い出をつづる「記憶の食」。今月から、懐かしい食のマンガ雑誌「思い出食堂」(少年画報社)と連動し、掲載記事が同誌でマンガになります。初回のテーマは「戦争と味」。この夏で戦後71年を迎えますが、舌はあの惨事をはっきり覚えていました。
きょうも、ちゃぶ台の上の大鍋は雑炊だ。米粒はほとんど見えない。サツマイモの茎、カボチャの葉、ハコベなどの野草、馬の飼料用の大豆かすや小麦かす……。水とごった煮にして、みそかしょうゆで味がつけてあった。雑炊をすすると、カボチャの葉や小麦かすがのどをこする感じが嫌だった。でも、味は問題外。家族7人で囲む食卓のにぎやかさだけが救いだった。
鹿児島市の椎葉康子さん(83)にとって、忘れられないのが母親の自家製雑炊だ。その名も「もんじゃらん」。「父が雑炊をみて、『なんじゃこら?』とでも言ったんでしょうか。終戦前の昭和20(1945)年から頻繁に出てきました」
昭和14(1939)年、6歳のときに教員だった父親らと一家で、東京から鹿児島県伊作町(現・日置市)に引っ越した。戦況の悪化は、農村地帯にも食糧難をもたらす。最初は普通に食べていた白いご飯は、すでに幻に近い存在になっていた。
そんなある日、いとこが亡くなった。妹の正子さん(当時5歳)が、葬儀に参列したときのことだ。「ないごて(なぜ)、白いご飯があっと?」。正子さんが不思議そうに母に尋ねた。「このうちの子が死んだでよ」。すでに正月でも白いご飯は食べられなかったが、葬式には参列者用に米の特別配給があったのだ。
すると、正子さんはまだ3歳だ…