国境なき医師団で看護師として活動する白川優子さん=7月17日、イラク北部アルビル、杉本康弘撮影
■国境なき医師団の看護師、白川優子さん
世界の激戦地にばかり派遣され、人道支援に奔走する日本人がいる。戦争や天災など医療が必要な地域にスタッフを派遣する国際NGO「国境なき医師団(MSF)」の看護師、白川優子さん(43)。今はシリア北部ラッカ近郊で活動中だ。現代の戦争の悲劇を間近で見続け、平和を保ち続けることの大切さを日本社会にも訴える。
モスルで日本人看護師が奮闘「これからが始まり」
――過激派組織「イスラム国」(IS)が最大拠点としたイラク北部モスルで今年6~7月、緊急医療支援を行いました。
「病院に銃弾や爆発で傷ついた人、IS戦闘員の自爆攻撃に巻き込まれた人が次々と運ばれてきました。手術室の看護師長として技術の指導をし、多い日には10件の手術に立ち会いました。約4キロ離れた旧市街の前線の爆発の煙が見え、砲撃音が聞こえました」
「イラク人の患者だけでなく、医師も看護師も誰もが3年にわたるIS支配の被害者でした。みんなが親しい誰かを亡くし、恐怖を感じ、傷ついたからこそ、患者の痛みがよく分かる。人間愛の深さを感じました。ある日、ISの戦闘員の子どもが運ばれてきました。外国出身の両親が自爆テロで死亡し、幼児も手足をやけどしていました。多くのイラク人にとってISは憎しみの対象なのに、言葉も通じず怖がる幼児に、『子どもには罪が無い』と愛情を持って接していました。公平に医療を行う病院としては当然ですが、私は涙をこらえられませんでした」
――2012年と13年に3カ月ずつ活動したシリアでは、病院も危険にさらされています。
「アサド政権はMSFの国内での活動を認めていないため、シリア北部の反体制派支配地域に周辺国から入りました。非正規に入るしかなく、医療活動自体が命がけです。MSFのジャケットも着られず、看板も立てられない。それでも、たくさんの患者がうわさを聞きつけ、やって来ました。ある日、病院の上空を政権軍の航空機が旋回し、近くに弾を6発落としました。ものすごい震動で、死ぬかと思ったけれど、医師は患者の手術を止めませんでした」
――12~16年に計4回派遣されたイエメンはどうでしたか。
「12年、内戦下のイエメンでは、米国などがテロリスト掃討作戦として無人機で空爆していました。(国際テロ組織)アルカイダ系武装組織の幹部が殺されたとき、攻撃側はお祭り騒ぎでしたが、その陰で多くの市民が深い傷を負いました。内臓が出ていたり、手足がもぎ取られたりしていました」
「今の戦争は、サウジアラビアとイランの『代理戦争』とも言われていますが、一般市民は大変な貧困に苦しんでいます。お風呂に入れず、服もボロボロ。栄養失調が深刻で、けがを治療しても、なかなか治りません。コレラがいま流行しているのも驚きません。シリアやイラクと違って、国際社会に注目されず、援助も足りない。戦争が終わる兆しすら見えません」
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――南スーダンでは戦争を一番身近に感じたそうですね。
「14年2月、北部マラカルに入ると、突然、戦争が始まりました。早朝のドカーンという音から砲撃音がずっと続き、戦争に巻き込まれたという感じがしました。国連の敷地内に逃れて、防空壕(ごう)を出たり入ったり。50度を超す気温の中、ビスケットや缶詰を食べ、ナイル川の水に塩素を入れて飲んだ。たくさんのけが人が運ばれてきて、どんどん亡くなります。遺体をバッグに入れて、せめて日付と性別と推定年齢を書きました」
「約2週間で砲撃音が止まり、空港も開放されたけど、街中の病院に残された患者の確認に向かいました。国連の敷地から出た瞬間に目にしたものは遺体、遺体、遺体。でも、危険を覚悟して行って良かった。生きている患者がいたんです。毎日行って90人以上救出した。南スーダンで戦争は一瞬で始まり、何万人もが難民になり、亡くなるという現実を見ました」
――16年に活動したパレスチナ自治区ガザは、イスラエルなどに周囲を封鎖され、「天井のない監獄」とも呼ばれています。
「私が行ったときは紛争状態ではなかったけれど、世界一巨大な『監獄』というのは本当にその通りと思いました。人々は『次の戦争はいつか』『いつ検問が開くのか』ということばかり話している。狭いガザに190万人が閉じ込められ、外に出られない。立派な大学があり、教育レベルも高いけれど、その後の仕事がない。それでストレスがたまって、抗議行動をするわけです。イスラエル兵に足を撃たれ、治療を終わった人がまた撃たれて来る。睡眠薬ばかり飲んでいる人もいた。私は足の治療をするだけではダメだと思いました。待合室で話を聞く機会をつくると、自分たちの心の内を聞いてくれたと感謝されました」