「大坂諸記」。「御内々」と朱書きされている=京都市下京区
150年前の大政奉還(1867年)の後、将軍を辞職した徳川慶喜(よしのぶ)とどう付き合うかに悩む西本願寺の様子を示す書状など、幕末・明治維新期の史料7点が浄土真宗本願寺派本願寺史料研究所(京都市下京区)の保管史料から新たに見つかった。研究所が24日、発表した。
見つかった史料の一つは、西本願寺が大坂の津村御坊(現・本願寺津村別院、大阪市中央区)との往復書簡をまとめた「大坂諸記」。西本願寺から津村御坊に宛てた慶応3年12月14日(1868年1月)付の書状控えでは、それまで西本願寺と親交のあった慶喜らに「とりあえず」「内々に」見舞いの品を贈るよう命じ、見舞いの手紙は「従来のように親しく交際するような趣旨とならぬように」と注意を促している。
大政奉還後、薩摩藩などの討幕派は新政府樹立を宣言。慶喜は京都・二条城から大坂城に下った。研究所によれば、西本願寺としては、慶喜と親しいと見られると立場を悪くする恐れがあった一方で、慶喜が勢力を回復する可能性もあり、友好的な関係を保つ必要もあった。「とりあえず」という表現には、元将軍となり立場が微妙になった慶喜を見る周囲の空気感が表れているという。
慶喜や幕府関係者への贈り物として選んだのは、鴨(かも)や「カステイラ(カステラ)」。カステラは当時の贈答品として珍しく高級品というだけでなく、慶喜らの好みに西本願寺側が配慮した選択だった可能性があると研究所はみる。
慶喜はその後、大坂城から京都に進撃したが、鳥羽・伏見の戦いで新政府軍に敗れ、江戸に逃れた。
江戸の築地本願寺と西本願寺の…