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102年前、米国人球児がいた 謎の「ジョン君」を追う

作者:佚名  来源:asahi.com   更新:2018-1-4 14:58:52  点击:  切换到繁體中文

 

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高校野球100回の歴史


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102年前、大阪・豊中グラウンドを沸かせた、米国人球児がいた。前年に始まった全国中等学校優勝野球大会(現全国高校野球選手権大会)で優勝した慶応普通部(現慶応)の一塁手ジョン・ダン選手。だが、1世紀の時は、彼の活躍を球史に埋もれさせた。大会が今夏100回を迎えるのを機に、大会初の外国籍選手の足跡を追った。(編集委員・永井靖二)


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全国中等学校優勝野球大会の盛況を記す1916年8月18日付大阪朝日新聞に「人気なジョン君」と見出しがついた、慶応普通部の初戦を取り上げた記事がある。


――ミスター、ジョン君がバットを担(かつ)いでプレート(打席)に立つと、観客は大喜び「ジョン緊(しっか)り!異人さん旨(うま)くやって呉(く)れ」と物凄(ものすご)い人気……。


慶応Vに貢献、その後は…


ジョンは2番打者の一塁手として出場し、優勝に貢献。2回戦で敗退した第3回大会にも出場した。


大会の人気者だった彼も100年を経て、母校にすら消息を知る人はいなくなった。慶応(神奈川)の現部長七條義夫(57)は「気にはなっていたが、謎の人物だった」と話す。


2015年5月28日、彼の写真を紹介した小さな記事が朝日新聞に載ると、札幌市南区にある「エドウィン・ダン記念館」説明員の園家(そのけ)広子(67)は、彼がエドウィンの三男だと気付く。その物語はJR北海道の車内誌に紹介され、目にした慶応OBを通じて七條にも伝わった。


ジョンの父親エドウィンは「北海道の酪農の父」と呼ばれる。米オハイオ州出身。1873(明治6)年に短角牛や綿羊を連れて来日したお雇い外国人で、北海道で真駒内(まこまない)牧牛場や新冠(にいかっぷ)牧場を整備するなど酪農の基盤を築いた。


1931年に東京で亡くなったが、生涯2回いずれも日本人女性と結婚し、1女4男をもうけた。ジョンは1900年2月26日生まれ。青年時代は、慶応義塾で学んだ。


園家は「同時代のクラーク博士と比べ、エドウィン・ダンは業績の大きさと多彩さの割に知られていない。息子が最初の外国人球児だったという、新たな側面に光が当たる意味は大きい」と話す。


ジョンのきょうだいは、日米二つの祖国に根を張った。異母姉ヘレンは幼時に米国へ。長男エドウィン・ダン・ジュニア(後に團甫〈だんはじめ〉と改名)と次男ジェームスは日本国籍を取得。エドウィン・ジュニアは文学に傾倒。ジェームスは東京音楽学校(現・東京芸術大学音楽学部)で学び、ピアニストになった。兄弟4人は日本で文化人らと交流を深めた。当時活躍していた作家の芥川龍之介と兄弟が一緒の写真も残る。


ジョンと末弟アンガスは慶応普通部を卒業後、1920年ごろ米国へ渡り、ジョンは技術者として製鉄所で働いた。アンガスは戦後、グラフィックデザイナーとして生計を立てた。


かつて働いた米の製鉄所は今


昨年12月中旬、記者はジョンが働いていた米オハイオ州のウォーレン製鉄所の所在地を訪ねた。街は以前は製鉄で栄えたが次々閉鎖された。一帯は「ラストベルト」(さびついた工業地帯)と呼ばれる。


製鉄所は1984年に米国大手と合併したが、景気の低迷で経営が破綻(はたん)。一時はロシア企業に買収されたが再開は果たせず、いまは更地になっていた。折からの雪で白く染められた跡地に、入り口の看板と貨車の引き込み線が残っていた。


彼が当時住んでいた番地は、いまも閑静な住宅街だった。白い壁の木造2階のしゃれた家屋には別の夫婦が住んでいた。近所の人に尋ねてみたが、ジョンを知る人には会えなかった。


ニューヨークから車で約1時間半のニュージャージー州にジョンの弟アンガスの次女ドロレス・ダン(82)が健在だった。ドロレスはジョンについて、「とてもハンサムで優しい伯父さんでした」と語り始めた。広めの額に白髪がちの髪をオールバックにして、物静かだが威厳を感じたという。全国優勝の経歴があると聞き、納得した様子だった。


日米開戦時すでに40歳前後だった2人は軍隊へ入ることはなかった。父アンガスは病気がちだったが、戦時中は米陸軍の兵器工場ピカティニー・アーセナルで肉体労働に従事したという。「日系人は他に仕事がなかったのでしょう。金属関係の仕事をしていた伯父さんも、戦時中は肩身が狭かったと思います」。1951年9月、サンフランシスコ講和条約のニュースがうれしかった。


米国でも日本と野球愛す


ジョンは米国でも、日本と野球を愛し続けたようだ。


川崎製鉄(現JFEスチール)は57年、ウォーレン製鉄所に技術団を送った。受け入れ役が、冶金(やきん)管理部長のジョンだった。


ジョンは一行を歓待。自宅へ招いてエビの天ぷらをごちそうし、手作りの碁盤を用意したり休日は自家用車で釣りに連れて行ったりしたと、川崎製鉄会長の岩村英郎は88年5月19日付の日経新聞「私の履歴書」で回顧している。


ジョンは老後フロリダへ移住し、76年10月に死去。アンガスも75年2月に亡くなった。ジョンの娘ヘレンは既に亡く、2008年に訪米した園家に「ジョン伯父さんは野球好きだった」と語ったアンガスの長女アリスも、昨年10月死去している。


いまやジョンを直接知る数少ない親類となったドロレスは「酪農で名をなした祖父とともに、野球で活躍した伯父を誇りに思う。親族が日米両国で生活し、こうして家族の歴史を聞けることが、最高の贈り物です」と語った。=敬称略


異色の選手、他にも


第2回大会で優勝した慶応普通部には、異色の顔がさらにいた。腰本寿監督は、ハワイ出身の日系移民2世。外野手兼投手の河野元彦は、両親が日本人とドイツ人の日本籍だ。


主将でエースだった山口昇は、進学した慶応大を約半年でやめ、製糖会社の野球部に誘われ台湾へ。帰国後は名古屋で、トヨタ自動車設立の中心となった豊田喜一郎とともに戦時体制下で純国産化の波に乗り、販売会社の愛知トヨタの創業者となった。中学野球の優勝投手から日本の自動車普及の主役となった生涯を「黒部の太陽」で知られる作家、木本正次は伝記小説「熱球爆走す」(1977年)にまとめた。


山口の孫で同社社長の山口真史(まさし、46)は幼時、祖父が「野球では鳴らした」と語っていたのを覚えている。「米国から先進的な技術を学び、米国人選手が仲間にいるなど、祖父のチームには開明的な気風があった。乗用車の普及に挑む際、チームワークや苦境での身の処し方など、野球での体験が影響を与えたと思う」と語る。




 

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