渡辺久美子さん(中央)と煌騎君(右)、晴大君=福島県二本松市
親が子を抱きしめる姿を愛知県の画家が描き続けている作品群「ダキシメルオモイ」の中で、原発事故後も福島に住む家族をモデルにした絵がある。一時は避難も考えたが、3世代の家族が共に暮らし続ける選択をした一家。いま、どんな思いを抱いているのか。
原発事故で避難、抱擁する親子の絵 モデルが歩んだ道は
2014年秋、福島県二本松市に住む渡辺久美子さん(43)の実父が74歳で息を引き取った。
福島市に住んでいた実父。当時小学2年だった長男の煌騎(こうき)君(11)は葬儀でお別れの言葉を読み上げた。煌騎君は久美子さんが書いた文を一部しか読まず、自らの言葉でこう語った。「短い間だったけれど、遊んでくれてありがとう」
涙が久美子さんのほおを伝った。「福島に残ってよかった……」との思いがこみ上げた。
東京電力福島第一原発1号機が水素爆発を起こした11年3月12日から約1週間後、久美子さんと夫(45)は息子2人を連れ、夫の姉が住む高知市に車で向かった。看護師の久美子さんは勤務先の病院を欠勤。放射線量が高い地域からできるだけ遠く離れたかった。
高知は別世界だった。洗濯物を外に干せる幸せを感じた。移り住もうかとさえ思った。でも2週間後には煌騎君の幼稚園の入園式が迫っていた。悩んだ末に、二本松に戻った。
戻った後も夫妻の心はゆれた。
夫は引っ越しに前向きだった。各県の県民性を紹介する日本地図を買って、毎晩のように眺めていた。それでも久美子さんは、同居する夫の両親を置いていくことは考えられなかった。
ある日、福島から避難した妻子の元へ向かう途中で男性が事故死したとのニュースを目にした。避難先の不慮の事故で子どもを亡くした人もいた。
「避難先に必ずしも幸せがあるわけではない。離れて寂しい思いを我慢するくらいなら、1分1秒でも家族で過ごしたい」
原発事故から1年がたったころ。夫妻は二本松に残ることにした。
放射能への不安は消えず、息子たちを外で思う存分遊ばせることはできない。だから、家族旅行は新潟県へ。次男の晴大(はるひろ)君(9)が通っていた幼稚園が催す保養に毎年参加するのは、外でのびのびと遊ぶ体験をしてほしいからだ。
家族の約束で地元の野菜や米はできるだけ買わないことにした。内部被曝(ひばく)を防ぐため、国より厳しい放射線量の基準で食材を選別する業者を使っている。
「ダキシメルオモイ」のモデルになったのは13年12月、子どもたちの保養先だった名古屋市中区の真宗大谷派名古屋別院(東別院)で。原発事故後の暮らしも地に足がついてきたころだった。
気苦労を重ねてはいるが、ふるさとにいればこそと感じることもある。
久美子さんは福島市の実家に月1、2回帰り、実父に息子たちを会わせることができた。父は孫がのどが渇いたと言えばジュースを買い、ノートがなくなったと言えばコンビニに走った。孫に耳をつねられても笑っていた。
震災前と変わらぬ家族の日常もあった。息子たちの学校のテストの点数で笑ったり、クリスマスなどのイベントのときは家族みんなで食卓を囲んだり。義理の両親と遊ぶ息子たちが見せる、ふとした笑顔に久美子さんは思う。
「家族みんなでいられて幸せだなあ……」(保坂知晃)