試合前、ピッチには両国の国旗が登場した=内田光撮影
日本中が沸いたサッカー・ワールドカップの日本―コロンビア戦。作家の村上春樹さんだったら、どのような観戦記を書いたでしょうか。話題となった著書「もし文豪たちがカップ焼きそばの作り方を書いたら」の筆者の一人、神田桂一さんに執筆していただきました。
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この試合は日本時間6月19日午後9時に始まり、午後10時50分ごろ終わる。
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僕はキッチンで185回目のツナとハムのサンドイッチを作っていた。サッカーワールドカップの日本対コロンビア戦をサンドイッチをツマミに、ビールを飲みながら観戦するためだった。時計の針は午後8時56分を示していた。まだキック・オフまでには時間がある。
BGMは、マーラー交響曲第七番。クラウディオ・アバドーは、ベルリン・フィルを今まさに、演奏的ピークに持ち上げようとしていた。曲の調べに乗せて、僕は、まるで、永遠にボールペンにふたをする工場に勤める作業員のように、一心不乱にサンドイッチを作り続けた。
テレビで歓声があがった。ふと我に返った。コロンビアの選手がレッドカードを受けて退場し、香川真司がPKを見事決めたようだった。やれやれ。見逃してしまった。でも僕はそれをどうすることもできないし、クラウディオ・アバドーは悪くない。ましてやカーネルサンダーズには何も罪はない。
僕は、テレビの前のソファに腰を掛けて、目を閉じた。パチン……OFF。だが、コロンビアも前半39分にペナルティーエリア近くでフリーキックを決め、同点に持ち込んだ。解説者は、まるでギリシャ悲劇の主人公のような形相で、「同点に持ち込まれました」と絶叫していた。「同点に持ち込まれた」。僕はそうつぶやいた。それを耳で聴いていた。からだのパーツのなかで僕は耳が一番好きなのだ。それはなんとなく、異国の地の外国人墓地を想起させる。
すると羊男が家にやってきた。後半戦が始まろうとしていた。彼は言った。
「後半戦が行われるかはあなた次第です。あなたが行われると思っていたら行われるし、思っていなければ行われない。ましてやジョニーウォーカーが決めることでもない」
沈黙。僕は、動揺したが、テレビに向かって周りを見ないことにした。後半戦は無事、始まった。後半28分、本田圭佑のコーナーキックに大迫勇也がヘッドで合わせて勝ち越しゴールを決めた。試合はそのまま終了した。羊男はいつの間にかいなくなっていた。試合後、香川はこんなコメントを残している。
「(PKは)もうしっかりと冷静に蹴ることができたので、大きかったと思います。うまくGKのタイミングを外すことだけ意識して、練習通りできたのでよかった」(『サッカーなんてと言わないで』 デレク・ハートフィールド(2025))
試合後のコロンビア選手の映像も映されたが、レッドカードを受けた選手には顔がなかった。
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神田桂一(かんだ・けいいち)
1978年生まれ。関西学院大学法学部出身。ライター・編集者。光文社『FLASH』記者、ドワンゴ『ニコニコニュース』記者を経て、フリー。現在はカルチャー誌を中心に活動中。著書に『もし文豪たちがカップ焼きそばの作り方を書いたら』(菊池良との共著、宝島社)、『お~い、丼』(筑摩書房)がある。現在、初の単著を準備中。