[PR]
(1955年決勝 四日市4―1坂出商)
「番狂わせの高校野球」。1955年8月18日の朝日新聞朝刊(東京本社発行)には、そう記されていた。前日にあった37回大会決勝。大会前の大方の予想を裏切る対戦となった。出場2回目の坂出商(香川)と、初出場ながら前年優勝の中京商(愛知、現中京大中京)を準決勝で下した四日市の顔合わせだった。
「僕らはどちらかというと“裏街道”から、ひゅっと出たようなもんですよ」。四日市のエース高橋正勝はおどけながら言う。半世紀以上も前の話に、「細かいことはもう忘れちゃった」。言葉とは裏腹に、試合の節々を思い出しては笑顔を浮かべた。
第37回全国選手権大会 力投する四日市のエース高橋正勝=1955年8月
午後2時3分、ゲームは始まった。四日市は一回、2死一、二塁から5番成瀬勝巳の中前適時打で1点を先制する。その直後の守備。遊撃の定位置についた副主将の伊藤政継が、エースの異変に気づく。「左腕が、いつもの高さまで上がっていない」。高橋も自覚していた。「ひじが下がっているって言われてね。疲れはもちろんあった。体重もずいぶん減っていた」
笑顔で当時を振り返る高橋正勝さん
初戦の2回戦から準決勝までの3試合を1人で投げ抜いてきた。先発完投はもちろん、1人で大会を投げきるのが当たり前の時代。3日連続での登板よりも、高橋の心身を削ってきたものがあった。甲子園にたどり着く前の三岐大会。打席で木製バットが根元から折れ、その破片で利き手の左手の薬指と小指を深く切った。甲子園に来てからも患部がうずき、違和感は決勝まで残っていた。
第37回全国選手権大会決勝 四日市―坂出商 ウォーミングアップをする四日市の選手たち=1955年8月
それでもエース左腕は、一回、二回と「0」を並べていく。もともと「球威は武器じゃない」と割り切っていた。直球が走らないなかで頼ってきたのは、カーブ。「落ちたり、横に曲がったり。僕のは曲がり方が1球1球違った。それがよかったんじゃないかな」と高橋は言う。
もう一つ。欲の差が明暗を分けた。1―0で迎えた三回、6番筒井輝雄の中前適時打でリードが1点増えた。ここで高橋の気持ちは楽になる。「勝ち越し点をやらないという気持ちだけは予選から変わらなかった」。色気を出さなかったから、六回2死三塁から1点を失っても、動じない。最少失点で切り抜けた。
坂出商は違った。3番打者の黒田饒は後に、決勝の相手が決まったときの心境をこう語っている。「強豪・中京商より初出場の四日市の方が戦いやすく、また勝てるものと勝手な判断をしていた」。その結果、「粘り」「無欲」といった持ち味を忘れていた、と。焦りからだろうか。八回、坂出商はスクイズを外した後の挟殺プレーで、悪送球によって4点目を失った。
高橋は横手気味のまま、9回を投げきった。最後の打者を遊ゴロに打ち取った瞬間は、はっきりと覚えていた。「きょとんとして、本当に信じられない感じだった」。マネジャーだった近藤孝身は、スコアブックにその感激を書き残した。「甲子園の毎試合が、この試合中に夢のように感じられた。選手が茫然(ぼうぜん)として感涙が頰を伝っていた。甲子園で見事勝ったのだ。君も泣け。僕も泣く」
ながらく岐阜勢に押され、夏に全国に出場したのは、これが3回目だった三重勢。四日市の初戦の白星が、夏の初勝利だった。そして、後にも先にもない全国制覇を成し遂げた。
第37回全国選手権大会 深紅の大優勝旗を勝ち取った喜びにひたる四日市の選手たち=1955年8月
翌日、深紅の大優勝旗が伊勢路に渡った。近鉄四日市駅に到着したチームは市内をパレード。学校までおよそ3時間20分かかった。前年には市内にある大協石油で大規模火災が起こり、後に4大公害病の一つとなる「四日市ぜんそく」の気配も忍び寄ってきていた。そんな街が、このときだけは沸いた。
いまも四日市で暮らす伊藤政は言う。「暗くなるようなことが続いた街でも、あの夏の話は盛り上がった。街にとって、唯一の光というか、明るい話題になれたんだなと思います」(小俣勇貴)
◇
高橋正勝(たかはし・まさかつ) 三重県出身。1955年夏、四日市のエースとして全国制覇。プロ野球巨人に入団。引退後に「初代スコアラー」となり、裏方としてV9時代を支えた。