谷崎潤一郎は著名な耽美主義の小説家で、何度もノーベル文学賞にノミネートされた。代表作には、「細雪」や「秦淮の夜」、「春琴抄」などがある。彼は中国を2度訪問したことがあり、中国の多くの文化人と交流があったため、その作品は中国文化の影響を大きく受けている。そして、その中国との縁、交流の経験が中日の文壇の逸話となっている。人民日報が報じた。
幼少時代から漢学に触れ中国の旅に憧れるように
中国の古代文化は日本に極めて大きな影響を与えてきており、日本の文化人の間では「漢学」が常にリスペクトされてきた。明治維新初期に、日本が大量に西洋の言語を日本語に取り入れた際にも、翻訳家たちは相当する漢字の組み合わせを探しだして単語を作りあげた。その当時、一流作家にとって漢学は必ずしっかり身につけているべき知識であり、特に、幸田露伴や夏目漱石、芥川龍之介、佐藤春夫などは、漢学に精通していただけでなく、たくさんの漢詩を創作した。
谷崎は小学校に通い始めたばかりの6歳の時に、漢学に精通していた担任の稲葉清吉先生の影響で文学に目覚めた。そして、13歳の時に、母親の勧めで貫輪秋香塾で漢文の素読を受けるようになる。幼少時代から漢学の熏陶を受けた谷崎は、中国に思いを馳せるようになっていった。1918年10月、谷崎は初めて中国を訪問し、じっくりと旅を楽しんだ。まず、遼寧省瀋陽市を経由して、北京に行き、そこから、湖北省の漢口へ行った後、船で川に沿って西に向かい、廬山を観光してから南京に向かった。その後、列車で蘇州、上海、杭州を旅行した。その旅は12月上旬まで続き、その後上海から船で帰国した。1926年1月、谷崎は再び船で上海を訪問し、そこで1ヶ月滞在して帰国した。この2度の中国の旅により、谷崎と中国の文化人の交流の逸話ができたほか、谷崎は文学作品を創作するためのたくさんの素材を得ることができ、その創作のモデル転換の基礎を築いた。