北海道の原告夫婦のコメントを紹介する優生保護法被害者北海道弁護団=札幌市中央区
不妊手術と人工妊娠中絶を国に強制され、家族を形成する権利を奪われたと訴える北海道の女性(75)とその夫(81)が28日、国を相手取り訴訟を起こすのに合わせて、コメントを公表した。全文は次の通り。
夫「本当は妻との子どもがほしかったのです」
私と妻は昭和51年に結婚式を挙げ、昭和52年に婚姻しました。私の妻が、身ごもっていた子を堕胎させられ、強制不妊手術を受けたのは、それから4年後、昭和56年6月12日のことでした。
私たちが結婚して初めてできた子でした。私は、当時、40歳を過ぎていましたから、諦めかけた頃に天から授かった子です。妊娠が分かったとき、私と妻は手を取り合って喜びました。
しかし、親戚の1人(以下では単に「親族」といいます)に妻の妊娠が分かったとき、話は暗転しました。親族は、「あなたは低能で子どもを産むことも育てることもできないのだから今のうちにおろしなさい」「もし産んでもどんな変なかたわ者が産まれるかわからない」と言いました。その親族が強く反対したため、そのほかの親族は皆、この件で口出しをしなくなりました。
そのため、私は、出産後、親族だけでなく世間から妻や子どもが何をされてどんな苦労をするかと思ったときに、不安と心配で頭がいっぱいになりました。
その中で、親族が、優生保護法の同意書を持ってきました。私がサインするまで、親族はその場から動こうとしませんでした。私は、不安と、子の誕生を楽しみにしていた妻への申し訳ない思いと、自らも加害者になるのかという思いの中、不安から逃れたいという思いで、親戚の指示するとおり同意書にサインをしてしまいました。
私は妻の手術が行われた日、余りにも妻と子が不憫(ふびん)で可哀想で仏具店に行き、白木の位牌(いはい)を買ってきました。私は、その日、位牌の表面に○○家守護水子命聖霊と書き、位牌の裏面には子の命日である昭和56年6月12日没と書きました。
私は、本当は妻との子どもがほしかったのです。あれから37年も過ぎてしまいましたが、今でも毎日を妻に詫(わ)びる心情で過ごし、後悔をしています。今年の6月12日には子の37回忌をしました。それでも私たち夫婦の胸には生涯大きな悲しみと恨みと虚(むな)しさが消えることはないでしょう。
私は優生保護法の問題について今年の3月1日に初めて新聞報道を見て、本当に嬉(うれ)しかったです。妻と私は、手術を受けてからずっとじっとしてきました。手術のことを話せませんでした。私は、新聞で取り上げられて、やっと妻を救ってもらえると思ったのです。
妻の手術の記録は、北海道に残っていないと聞きました。しかし、37年前のあの日に妻が手術したことは間違いないことです。人の命を奪う手術の記録、父親となるべきはずの私が書いてしまったあの同意書はどこに行ったのでしょう。
私たちの子を奪う最大の力となったのは、中絶手術、強制不妊手術を勧める親族の後ろ盾に優生保護法が存在していたことにほかなりません。この法律がなければ、親族が妻に手術を勧めてくることはありませんでした。私たちの子が奪われることも、妻に子どもが望めなくなることもありませんでした。この悪法により、どれだけの国民の生命が奪われたのでしょうか。
私は、わが子を奪われた私たちの悔しさ、悲しさを裁判で問いたいのです。全国の私たちと同じ立場に立たされている人たちにはどうか勇気を持って立ち上がってほしい、私たちと一緒に闘ってほしいと思います。
(原文…