新国立競技場のデザイン案の模型を前にしたザハ・ハディドさん=2013年3月
新国立競技場の旧計画案のデザイン監修を手がけた建築家のザハ・ハディドさんが先月31日、65歳で急逝した。早くから才能を評価していた建築家の磯崎新(あらた)さん(84)は今、憤りを感じているという。その思いを語ってもらった。
建築家ザハ・ハディドさん死去 新国立の旧計画デザイン
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競技場問題などをまとめた『偶有性操縦法』(青土社)を出したばかりの時に、ザハが亡くなるとは思いもよらなかった。いや驚いただけでなく、憤っているという表現を使いたい。旧計画が白紙撤回された後に行われた2度目の公募にも、彼女は参加しようとしたが、施工業者の協力を得られなかったという。大げさにいうと、日本の排外主義がザハを追い出したように思えたのだ。
1983年、香港の山上に高級住宅などを建てる設計競技の審査員を務めていた私は、落選しかけていた中から彼女の案を見つけて推した。ロシア構成主義に通じるものがある一方、床が空中にばらばらに浮いているような全く新しい表現で、1等になった。あのときは出身も性別も知らなかったが、あの案が彼女の始まりだったと思う。
我々の世代は構造や設備の合理性の上に表現があったが、ザハはまず感覚的な表現があって、それを合理化していた。建築というより、イメージによるデザインの能力といえた。
香港の例をはじめ実現しないケースが続き、長く苦労してきた。多くは、斬新な案のままクライアントに妥協しなかったためだろう。その後コンピューターによる設計が汎用(はんよう)化され、ダイナミックな造形を支える構造計算が可能になり、彼女はさらにイメージを広げていった。その強く象徴的な造形が、今度は政治家や市場を重視するクライアントに採用され、少しずつ実現するようになった。
彼女のデザインには多くの追随者がいたが、誰も彼女ほどの個性を持って建築を実現させた人はいない。
アラブ出身の女性という、二重の意味で少数者だった。それを逆転して強さに変えた。
90年に大阪で開かれた「国際花と緑の博覧会」のときには、私の指名でフォリー(東屋〈あずまや〉)を設計してもらった。彼女はきちんと日本の風土も理解していたと思うが、それ以上に常に地域を超えた普遍的な建築像を目指していた。
アグレッシブで、感情が表に出やすい人だった。私には丁寧だったが、同席した会食の場で、張り合っていた建築家と口も利かなかったことがあった。
新国立競技場の最初のデザイン競技で彼女の案が選ばれた段階では、あのような案を生み出せる建築家を選んだと考えるべきだった。それなのに、規模も機能も過大な条件をほとんど変えずに、設計させた。ザハはいわば被害者なのではないか。条件を変えても、彼女には対応能力があったはずだ。
五輪は本来、都市の祭典で、国が表に出てくる必要はない。国家の五輪としてはナチス政権下の36年のベルリン五輪が典型だが、今回も国が前面に立ったために、大きければいい、派手ならいい、という国や政治家たちの意向が働いたのではないか。もはや建築の議論ではなかった。
旧計画の白紙撤回が表明された昨年7月17日は、安保関連法案が衆院本会議で採決された翌日。競技場問題で安保法制の隠蔽(いんぺい)をはかったという見方もあったと思う。2度目の公募への参加申請が締め切られた翌日に、参院本会議で安保関連法が可決・成立した。そして、施行の2日後にザハが亡くなった。
この奇妙な符合に、彼女は日本の戦争と平和を巡る議論に巻き込まれたように感じた。彼女が、2度目の公募にも何とか参加しようとしていると知ったとき、プロフェッショナルな建築家として責任をとろうとしているのだな、と思っていた。
だから今は憤りを感じつつ、彼女には「大変だったが、よく頑張ったね」という言葉を贈りたいと思う。(構成 編集委員・大西若人)
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Zaha Hadid イラク・バグダッド生まれ。早くから建築を志し、ロンドンで建築を学び、1979年に事務所を開設。94年にドイツで初の実作。21世紀に入り次々と流動的な建築を手がけ、2004年には女性では初めてプリツカー賞を受けた。