テントが並ぶグラウンドで、芝生の凸凹をならす主将の倉岡(右から2人目)ら熊本二の野球部員=熊本市東区
「2年生、全員無事です。絶対生きます」
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熊本二の中島健太郎監督(37)に部員の三田創一朗(2年)からメールが届いたのは、4月16日午前3時52分のことだった。
真夜中の熊本を襲った激震。震度7の益城町に自宅があった唐津智哉(2年)は、「ゴォォ」という地鳴りで目が覚めた。2日前の「前震」で警戒し、自家用車に寝泊まりしていた。直後、車が跳びはねるように揺れた。自宅の玄関は地割れし、風呂場の壁が崩れた。家は半壊。地震後、熊本市内のアパートに引っ越した。唐津の他にも、60人いる部員の大半が避難所や車中で寝泊まりを続けた。
熊本二の校舎は益城町の中心部から約5キロの距離にある。避難場所になり、多くの避難者が身を寄せた。野球部が練習で使う校庭も車中泊の車で埋め尽くされた。外野の芝生はタイヤのわだちで凸凹に。「とても野球のことを考えられる状況じゃなかった。でも、いつか、再びここでという思いは頭の片隅にあったのかもしれない」と中島監督は振り返る。
今の3年生は軟式の強豪チームから入った選手もいて、入学時から期待された学年だった。昨夏、熊本大会で敗れた翌日から新チームを始動。秋の県大会は秀岳館に20点差をつけられ大敗したが、これをバネに冬の猛練習を乗り越えた。「夏はやれる」。そう自信を深めていた矢先だった。
突然野球ができなくなり、部員たちは「野球ノート」に様々な思いをつづった。今村智哉(3年)は車中泊の狭い車内で、《当たり前だと思っていた生活が特別になった。身近なものが全てなくなった》と書いた。《今は本当に最悪の状況だ。野球は残り2カ月しかない。最後まで全力でやりたい》と記したのは大田隼輔(同)。きつく苦しかった練習ですら、思い出すといとおしかった。
5月10日、練習再開。この間、予定した17試合の練習試合ができなくなった。年1度の宿泊遠征もなくなった。仮設の教室として使うテントが並ぶ校庭で、あえて中島監督は厳しい言葉をぶつけた。「地震が起きたからって、お前たちの夏は待ってくれねえぞ」
4日後、久々にあった練習試合のあと、主将の倉岡直輝(同)は丁寧な文字でノートに書き込んだ。《言い訳もしたくないし、後悔もしない。前に戻すのではなく、前より強く、前より成長する》
熊本大会は7月10日に開幕する。地震で一部の施設が破損した藤崎台県営野球場も、例年通り使えることになった。その藤崎台の開会式で、選手宣誓をするのは倉岡だ。抽選で63チームから選ばれた。「当たり前に野球ができることに感謝し、前を向いて歩く姿を伝えたい」。この夏、高校野球に新たな足跡を残す。