長崎平和祈念式典に参列するため長崎を訪れた黒川博さん=9日午前9時46分、長崎市の平和公園、福岡亜純撮影
被爆者の平均年齢は80・86歳(3月末現在)。高齢化が進む中で被爆71年の長崎原爆忌が巡ってきた。ある被爆者は長崎に来るのはこれで最後と思って平和祈念式典に臨んだ。亡くなった祖父の思いを引き継いで初めて参列した19歳の若者もいた。
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「原爆の日」まとめ読み
茨城県土浦市の黒川博さん(87)はこの日、茨城県の遺族代表として、長崎の平和祈念式典に参列した。「70年たってもちっとも変わんないよ。この辺に来ると、悲しくて」。涙をぬぐった。
昨年は3カ月間、病気のため入院した。今も体調が優れず、自宅では横になっていることが多い。長崎に来るのは今年が最後と覚悟し「何が何でも、8月までは生きていよう」と過ごしてきた。「僕らのけじめだから。原爆というのは」
式典会場となった平和公園そばの長崎市松山町で生まれ育った。7人きょうだいの3番目。1945年、旧制中学3年の時に海軍を志願し、海軍兵学校に進んだ。長崎を旅立つときには、列車の線路まで家族や近所の人たちが見送りに来てくれた。黒川さんも窓を開けて手を振り返した。
軍人になるということは、国のために命を捨てること。「もう家族に会えないかもしれない」と列車の中で涙した。だが、それから数カ月、終戦後に戻った長崎は焼け野原に。爆心地となった松山町は壊滅状態だった。黒川さんの母、弟、妹2人の計4人も原爆の犠牲になった。黒川さんもこのとき残留放射能で被爆した。「結局、残った人が死んじゃって、僕らが生き残った」
9歳だった妹の幸子さんは、当時、町にいた人で唯一生き残った、とされる。下の2人の妹を連れて遊んでいる時に被爆。2人は亡くなったが、幸子さんは防空壕(ごう)の中に吹き飛ばされ、全身に傷を負った。
生き残った父や幸子さんと再会した時には号泣した。父が土の中に埋めたままにしていた妹2人を掘り起こして火葬をした際も、ただただ涙が出た。
「とにかく原爆というのは絶対になくさないといかん。家族をいっぺんになくして……。我が家だけじゃない、みんないっぱいそうなんでね。ああいうことが二度とあっちゃ、人間は本当に破滅してしまうよ」
式典中、黒川さんの頭には亡くなった家族や友だちのことが浮かんだ。「涙が出てしょうがない。何でうちの上に落としたんだろう……」
いまだに癒えない悲しみ。だからこそ、式典を終え、「これを最後にはできない」という思いがわいた。「来年も何とかして来たいね。来年も再来年も、体が続けば」(岡田将平)
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