補償金などについて書かれたチッソ元副社長のメモの写し
水俣病の原因企業チッソが、患者への補償で経営危機に陥った1970年代、国が公的支援を決めるまでの詳しい経緯が、同社元副社長による内部メモから明らかになった。前例のない公害原因企業の救済に際し、補償費の負担を抑えようとする政府高官らの発言が生々しく記載されていた。
メモをまとめたのは77~89年にチッソ副社長を務めた久我正一氏(故人)。93年3月の作成とみられ、同社が保管していた。チッソ史の研究者を介し、朝日新聞は写しを入手した。
「補償金支払が激増し、経営は逼迫(ひっぱく)の度を深めた」
チッソは73年、患者家族による初の損害賠償請求訴訟(第1次訴訟)で敗訴した後、患者認定を求める人の急増で補償費支出が急拡大していた。久我氏や島田賢一社長らチッソ幹部は74年以降、環境庁の幹部や自民党国会議員らに支援を要請。630億円の総資産に対し906億円の負債を抱える深刻な債務超過に陥った77年度以降は頻繁に陳情を重ねた。「苦境を訴え、具体的方策の実現を執拗(しつよう)にお願いした」。相談を受けた元環境庁事務次官は、逆に久我氏に地元の世論工作の必要性を説いた。「市長を馬鹿騒ぎさせよ」「水俣市の存亡にかかわるとして社会問題化させないと容易でないぞ」
元環境庁次官は、大蔵省時代の…