背番号18のユニホームを持つ松岡勲さん=16日、高知県四万十市中村大橋通7丁目、森岡みづほ撮影
1977年春の選抜大会で、「二十四の瞳」と呼ばれ12人の選手で準優勝した中村(高知)。あの感動をもう一度と、野球部を応援し続けてきた男性がいる。40年ぶり2回目の出場決定の連絡を受けた3日前、男性はがんを宣告された。今大会、選手は登録枠18人に届かない16人。野球部は使う予定のない背番号「18」を男性に贈った。
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「中村高校野球部を支援する会」の会長、松岡勲さん(72)は、地元の高知県四万十市で教材会社を営んでいる。
40年前の春、快進撃を続けた中村に興奮した。準優勝した選手たちはオープンカーに乗り、市内をパレード。街に紙吹雪が舞った。
あの時の感動をもう一度――。2001年に支援する会を結成し、市民から寄付を募って大型バスや練習器具などを寄贈。公式戦には必ず応援に赴いた。
21世紀枠での出場が決まった1月27日、松岡さんは校長室で上岡哲朗校長や「二十四の瞳」を指揮した市川幸輝元監督らと握手を交わした。
その3日前、松岡さんは食道がんと診断された。祝いの場にふさわしくないと、がんのことは伏せていた。「動揺させてはいかん。それにうれしいニュースが舞い込んだのに、自分の病気のことを話して打ち消すわけにはいかない」
出場が決まってからは、松岡さんもマスコミの取材に追われた。うれしさや忙しさから体調の悪さは感じなかったが、2月8日から東京の病院で抗がん剤治療を受けることになり、上岡校長に打ち明けた。
上岡校長から病気のことを聞いた横山真哉監督は「何とか力になれないか」と、背番号を贈ることを思いついた。
中村のグラウンドには「想(おも)いは一つ甲子園」と書かれた白地の横断幕がかかる。支援する会がつくったものだ。主将の山本泰生君(3年)は「遠いところにも応援に来てもらった」と感謝を忘れない。
2月22日、横山監督は松岡さん宅を訪ねた。松岡さんは高熱を出して寝込んでいたため、妻の充(みつる)さん(71)にユニホームを託して帰った。背中には「18」が縫い付けられていた。
一緒に手渡されたはがきにはこう書かれていた。
「この背番号は大変重いです。これからの(松岡さんの)闘いの際に少しでも力になれたらと、今回使用しない18番をユニホームに付けて同封します」
ユニホームは、横山監督が約25年前、初めて中村の監督を務めていたときに着ていたものだ。職員室で自ら背番号を縫い付けた。背番号は少しだけ斜めになってしまった。
受け取った松岡さんは涙が止まらなかった。不思議なことに、ユニホームを見た30分後には平熱に下がっていた。
「甲子園に行くという奇跡を見せてもらった。熱が下がった時、中村は何か奇跡のような力を持っていると思った」と松岡さん。今月初旬には、2度目の抗がん剤治療を受け、髪の毛は全部抜けてしまった。
4月に手術を控える。それでも「選手たちがプレーする姿を見たい」と阪神甲子園球場に行くつもりだ。(森岡みづほ)