真新しいユニホームに身を包み、指導する岸本監督(左)=沖縄県宜野湾市
17日に開幕した全国高校野球選手権沖縄大会に、今年4月に硬式野球部ができた沖縄カトリック(沖縄県宜野湾市)が初出場する。監督は、かつて沖縄水産を甲子園連続準優勝に導いた故・栽弘義監督の教え子、岸本幸彦さん(59)だ。12人の1年生選手とともに、夏の大会に挑む。
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周りを民家に囲まれたグラウンド。授業が終わると、選手らは学校から1キロ離れたこの場所に集まってくる。打撃ケージは、四方八方に選手たちがネットを張り、ボールが家に飛び込まないようにつくった。ただ、正面にだけ直径2メートルほどの穴がある。「この穴を抜ければ、ヒットになる」と岸本さん。
バーベルがないなら、バケツにセメントを詰めてつくる。限られた状況のなかで工夫するのが栽監督の教えだった。
■閉じ込めてきた夢
「高校野球、もうあがります」
岸本さんが監督を務めるきっかけは、私立高の職員をしていた昨年の元日、大学時代の同級生から届いた高校野球の監督勇退を知らせる年賀状だった。
岸本さんは1976年、栽監督が率いる豊見城の主将として夏の甲子園に出場した。準々決勝で星稜(石川)に敗れたが、「もう一度、指導者として戻ろう」と誓った。
だが、大阪体育大卒業後、目指した保健体育教諭は狭き門。数年で見切りをつけ、地元の民間会社に就職した。年下の世代が高校野球の監督をする姿を見ても、「考えないようにしよう」と言い聞かせてきた。
年賀状が心を揺さぶった。高校野球の監督を退く同級生がいるのに、自分は指導者の夢を閉じ込めてきた。「このままでいいのか」。その日の夜、妻に言った。「仕事、やめるわ」
■「自分は13番目の選手」
50代半ばを過ぎてからの就職活動。北海道から沖縄まで30校以上に、監督を任せてもらえないか、電話をかけた。保健体育の教諭として採用されたのが、私学で硬式野球部がなかった沖縄カトリックだった。今年4月に1年生が入学すると、練習前の1時間は一緒にブルペンに土を運び、草を刈った。「今は何をするのも楽しくてしょうがない」
栽監督は、近づくだけで体が硬直するほど緊張感を漂わせた。練習試合を止めてでも、「なぜその動きをした」と選手に考えさせた。厳しかったが、最後の夏の大会では「サインはちゃんと見ろ。あとはのびのびやれ」と指示された。自分も「練習は厳しく、試合ではリラックスさせたい」と、師をなぞるつもりだ。
初戦の相手は、かつて栽監督が采配を振るった小禄(おろく)。主将の金城来南(こなん)君は「相手は3年生中心。自分たちの力を知ることができる」と意気込む。
「自分は13番目の選手」という岸本さん。40年あまりの時を経て、新たな挑戦が始まった。(新屋絵理)
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〈栽弘義監督〉 1941年、沖縄県糸満市生まれ。糸満高から中京大を経て、小禄高に教諭として着任。豊見城高と沖縄水産高で甲子園に出場した。90、91年には、2年連続で沖縄水産高を夏の甲子園準優勝に導いた。様々な独自メニューを採り入れ、沖縄野球の基礎を築いたと評価されている。2007年、65歳で死去。