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29歳で逝った父の分まで 「親代わり」監督を甲子園へ

作者:佚名  来源:asahi.com   更新:2018-7-1 20:02:23  点击:  切换到繁體中文

 

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祐誠の金城清忠監督の監督室に置いてある丸山豊揚さん(右)の家族写真。優子さんが抱っこしているのが蓮太君だ=2018年5月23日、福岡県久留米市


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少し色あせた家族写真。野球帽を浅めにかぶる男性と、赤ちゃんを抱っこした女性が肩を寄せ合い、幸せそうにほほえむ。祐誠(福岡)OBの丸山豊揚(とよあき)さん一家。野球部の監督室の机の上に置かれている。


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豊揚さんは2002年11月、北九州市民球場で社会人野球の試合中、突然倒れた。数日後、けいれんによる発作で亡くなった。まだ29歳。日産自動車九州の内野手として活躍していた。


30歳の妻優子さんと1歳9カ月の蓮太(れんた)君、生後1カ月に満たない竜輝(たつき)君が残された。


高校時代の豊揚さんを指導した祐誠の金城清忠監督(61)は心に決めた。「蓮太の父親代わりになろう」。毎年秋には豊揚さんの代のメンバーと現役選手で「追悼試合」を開き、兄弟に始球式をやらせた。


優子さんは悩んだ。球場に行けば、嫌でも夫を思い出す。でも息子たちは「野球をしたい」と言う。キャッチボールの相手をし、トスバッティングも手伝った。


やがて蓮太君は、父と同じ高校をめざすようになる。金城監督は「うちで預かるから、心配せんでええよ」と優子さんに言った。


幼き日に始球式でボールを受けてくれた捕手は、祐誠のコーチだった。練習試合の相手校には父を知っている監督もいた。思い出がない父の存在を通じ、自分を気にかけてくれることが励みになった。


金城監督は写真立ての豊揚さんにたまに語りかける。「息子はお前と同じようによく頑張っているよ」


この夏、3年生。投手としてベンチ入りを狙う。思うように球を投げられず、くじけそうになったこともある。その度、言い聞かせた。お父さんはもっと野球をしたかったはずだ……。


正月、父の墓前で手を合わせた。「金城先生を甲子園に行かせられるよう頑張ろうと思う。見守っていてください」(角詠之)




 

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