与謝野馨さん(右)は、大好きな囲碁の対局で、大竹英雄名誉碁聖にも挑戦した=2016年6月、東京都内、囲碁インストラクター・稲葉禄子(よしこ)さん提供
自民、民主の両政権で閣僚を務め、5月に亡くなった与謝野馨さんは、国の将来を案じた大局観にこだわり続ける「政策職人」だった。政界屈指の碁打ちでもあり、プロ棋士とも対局するアマ七段の腕前だった(7月5日付で名誉九段が贈られた)。その棋風はゆったりと構え、細かい競り合いにはとらわれない。政治家のたたずまいとも重なる、打ち手だった。
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「碁を7局、打ってほしい。一冊の本にまとめたいから」――小林光一名誉名人のもとに与謝野さんから手紙が届いたのは、昨年6月のことだ。
与謝野さんは、囲碁人生をつづった「自分史」を出版したいと、原稿を書きためていた。2人で相談した結果、小林さんと4局、門下生と3局打つことが決まる。7局の棋譜解説とともに、プロ棋士や碁仲間からのひとことも載せる構想だった。
「もっと強くなりたい」
対局を前に訪ねた私に、与謝野さんはうれしそうな表情で、そう書いた。2012年に政界を引退し、咽頭(いんとう)がんで声を失った後もよく会っていただき、筆談を重ねた。このときの字を改めて読み直すと、力がこもっているように映る。
小林さんは、もう40年以上も前に、与謝野さんに2年ほど稽古をつけたが、対局は久しぶりだった。7局のうちの2局目は昨年10月17日にあり、ハンディとして、与謝野さんがあらかじめ三子(三つの石)を置いた。名誉名人は礼を失しないように、温(ぬる)い手は打たない。「こそこそしない、与謝野さんらしい品格の高い碁で、以前より激しく、厳しく闘いにきた」というが、1時間ほどで与謝野さんは敗れ、悔しそうな表情をみせた。
その後は体調が優れない日が増え、日程が決まっていた3局目は、実現しない。小林さんは、7局を打ち終えなかったことが、心残りだ。「まだこれだけのちゃんとした碁が打てると、後世に残したかったのでは。棋譜を見れば、どのくらいの打ち手か、わかりますからね」と受け止める。「自分史」は、未完に終わった。
囲碁がとりもつ縁は、政界でも広がり、深かった。
中曽根康弘氏の秘書を経て、国会議員に初当選したのが1976年。自民党の若手議員のころ、国会の運営がこじれると、野党議員と碁を打って対立色をほどき、互いに無理をのみ合うことがよくあった。
小沢一郎議員とは、長年の碁敵だ。2007年10月、ハンディなしの「互い先(せん)」で、上手とされた与謝野さんが序盤優位ながら、大差で負けた。直後は「ぜひ雪辱戦を」とコメントしたが、悔しさが抜けず、しばらく言葉少なだったという。このとき小沢さんは民主党代表で、この対局直後に自民党と民主党の大連立構想が持ち上がる。
囲碁では、打った自分の石が生きているか、死ぬかどうかを「読む力」と、形勢判断、すなわち「全体を見通す力」が勝負に直結する。小林名誉名人によると、「与謝野さんは全体を見る力がすごくあった。ゆったりと、細かい部分にはこだわらず、大場、大場と回って、勝つ碁だった」そうだ。
「政治家人生最後の仕事」でも、棋風そのままに、勝負をかけた。
2010年8月、東京・築地のすし店で、プロ棋士を囲む会があった。政権が民主党へと交代し、野党議員となっていた与謝野さんは、ここで当時の菅直人首相と対局する。そして、「私が自民党時代の最後につくった財政健全化責任法案を考えなさい。自然と自民党と政策協議になる」と進言した。
この年の暮れ、民主党は、社会保障のための議論を前面に据え、消費税の増税の必要性を記した報告書をまとめた。この手法は、与謝野さんが自民党政権時代に財政再建を主導したときと同じだ。
翌年1月、菅首相が「ぜひ、内閣に参加してもらいたい」と声をかけ、引き受けたのは、社会保障と税の一体改革担当の初代大臣だった。「民主党が日本経済を破壊する」というタイトルの著書を出し、鋭く糾弾していた政権への入閣だっただけに、「大義がない」「変節」との批判を浴びた。
でも、本人は意に介していなかった。「魂を売ったわけじゃない。雇われ職人として、受けたんだ。悪口を言われながらばかみたいに頑張る人がいないと、物事は進まないんだよ」。口調は淡々としていた。そして、こうも話してくれた。
「民主党の報告書は、我々が自…