1974年名古屋場所、千秋楽の本割で輪島(右)に左下手投げで敗れる北の湖(ベースボール・マガジン社提供)
■土俵 時を超えて〈1974年名古屋場所〉
相撲特集:どすこいタイムズ
60回目を迎える名古屋場所。地方場所の中で最も歴史の浅いこの地で、初めて横綱昇進を決めたのが北の湖だ。43年前。21歳2カ月の最年少記録は、いまも破られていない。
名古屋市熱田区にある白鳥山法持寺。仁王門をくぐると、すぐ、高さ1メートルを超す石碑が目に入る。
うん ほんまに横綱になったんや 母ちゃん
1974年7月24日、横綱昇進を決めた北の湖の言葉が刻んである。当時、三保ケ関部屋の宿舎だった法持寺で伝達の使者を迎えた後、故郷北海道の母テルコさんに本堂の赤電話から伝えたのだそうだ。北の湖が逝った一昨年11月、ファンから花が手向けられた。
あの名古屋場所。綱とりがかかる大関北の湖は、14日目までに13勝を挙げた。この時点で優勝同点以上が確定し、場所後の横綱昇進をほぼ手中にしていた。千秋楽の相手は1差をつけていた横綱輪島。
勝てば2連覇の結び。後に「憎らしい」と呼ばれた北の湖から、気負いが見て取れる。
立ち合いで2度、つっかけた。3度目。当たってすぐに左を差されたが、強引に寄り立てる。体を開いた輪島の、最初の下手投げで転がされた。これで13勝2敗の相星。優勝決定戦も攻め急いだ北の湖は、またも左下手投げ一発で仕留められたのだった。
「優勝パレードのオープンカーで帰ってきてくれると思っていたから。そりゃあ、悔しかった」。法持寺の当代住職・川口高風さん(69)は振り返る。
この場所で琴桜と北の富士の両横綱が引退し、「輪湖(りんこ)時代」はいよいよ始まった。北の湖の横綱昇進後、2人の対決は北の湖の18勝14敗。それが名古屋場所に限れば、1勝3敗となる。24度の優勝を誇る北の湖が、法持寺にパレードで帰ってきたのは78年と80年だけ。80年は輪島が休場していた。名古屋はなぜか、5歳上の輪島に分があった。
ところで、石碑に刻まれた北の湖の言葉は、なぜ関西弁なのだろう。北の湖の一周忌に高風さんがまとめた記念誌は、「師匠の三保ケ関親方(元大関増位山)は兵庫県出身であり、相撲の大阪場所もある」と説明している。関西弁を耳にする環境にあったから、という理屈だが、少し強引にも聞こえる。
ファンや角界関係者から指摘されると、高風さんは「そう言ったんだからしょうがない」と答えるようにしている。だが、13歳の入門時からかわいがった5歳下の北の湖が、関西弁を話すのを聞いた記憶はない。
石碑にしたのは、テルコさんへの電話をそばで聞いた父で先代住職の高明さん(故人)だ。高風さんは、こう推し量る。
「北の湖はぼそぼそしゃべるでしょう? 聞き取りにくかったんじゃないかな。だから、本当は、『うん 本当に横綱になったんだ 母ちゃん』だったかもしれない」。でも、と続け、ニヤリと笑った。
「方言の方が温かみがあるでしょう。名古屋弁で『横綱になったんだがや』って言うより、関西弁の方が柔らかいもんねえ」
真相は分からない。しかし、北の湖本人から、文句を承ったことはないという。いわば「公認」だ。
87年、法持寺本堂の改装を機に、三保ケ関部屋は宿舎を移転した。そして2013年、10代目師匠の定年退職とともに部屋は閉鎖された。
高風さんは言う。「たくさんの思い出をもらった。幸せな寺。三保ケ関部屋と北の湖には、感謝しかない」。もちろん、石碑はいつまでも残すつもりだ。(鈴木健輔)