3人の娘の墓標を参り、シャボン玉を飛ばす田淵親吾さん=12日午前10時46分、群馬県上野村、飯塚晋一撮影
「今まではサーッと登れたけど、今日は気合を入れないと登れなかったよ」
流した涙に触れるために 日航機墜落32年、慰霊の登山
12日午前10時すぎ、日航機墜落事故で3人の娘を失った兵庫県西宮市の田淵親吾さん(88)は御巣鷹の尾根を登り切り、汗をぬぐった。ひざが昨年より痛んだが、「早く会いたいから」と、緩い回り道ではなく、険しい道を約1時間かけて登った。妻輝子さん(83)も少し遅れて登ってきた。
しっかり者の長女陽子さん(当時24)に、次女満(みつる)さん(当時19)と三女純子さん(当時14)がべったり。そんな3人姉妹だった。
あの夏、純子さんの中学最後の夏休みを記念して旅行の計画を練ったようだった。親吾さんは「あんまり細かいことを言うと、きゅうくつになるから」と8月9日の出発の朝、「いってらっしゃい」とだけ言って送り出した。3人は東京ディズニーランドやつくば科学万博を楽しみ、12日の帰りに事故機に乗った。
夫妻は事故を知り、すぐに群馬に向かった。遺族の待機場所のような講堂で、ただぼうぜんとして待った。3人の遺体が見つかったと言われたのは3日後だった。親吾さんは、しっかりと遺体を見ていない。「五体満足になってたのか、ばらばらなのか、分からんまま」
現場に散らばった遺品から、姉妹のカメラが見つかった。フィルムを現像してみると、旅行中の3人が写っていた。日付は出発日の1985年8月9日。少しはにかんだような年下の純子さんに、陽子さんと満さんが笑顔で寄り添っている。「電車かどこかで撮ってもらったんでしょうね」と親吾さん。その写真はずっと、両親を見守るように自宅の仏間に置かれている。
毎月、3人が出発した9日近くに、僧侶にお経をあげてもらう。特別な法要の予定はないが、毎月の読経をやめるつもりもない。「これが子どもに対するおつとめ」と思う。
12日、3人の名前が刻まれた石の墓標に着くと、親吾さんは名前を指でゆっくりとなぞった。「今年も元気にお参りできたという感謝の気持ちを伝えました」
弔い上げとされる三十三回忌。だが親吾さんは「区切りというのは、あってないようなもん」と話す。夫婦ともに80歳を超えたが、毎夏の登山は続けるつもりだ。
「気持ちがそうさせるんや。体が元気な間は、行かな。恨みつらみを言ったところで、帰って来ない者は帰って来ない。できることは供養を続け、山に登り続けることだけ。残された人生を、子に対する思いとともに送りたい」(山崎輝史、角詠之)