「私らが悪いんです。社員は悪くございません」。破綻した山一証券の野沢正平社長は涙声で会見した=1997年11月24日、東京証券取引所
20年前の1997年11月24日、4大証券の一角の山一証券が、巨額の簿外債務で経営破綻(はたん)に追い込まれた。89年に日経平均株価が最高値をつけた後、バブル経済は崩壊。不良債権問題が日本経済をむしばむ中、「大手金融はつぶれない」と言われた時代は終わりを迎えた。散り散りになった山一の元社員らは、破綻の教訓が最近の企業不祥事にも通じると語る。
「私らが悪いんです。社員は悪くありません」
山一が経営破綻した日の記者会見で号泣する野沢正平社長(当時、79)の姿は、強烈な印象を社会に与えた。
約85人の部下を率いる千葉支店(千葉市)の副支店長だった永野修身さん(59)は、その様子を支店内のテレビで同僚らと見ていた。「ちきしょう」と、あちこちで声があがった。「(営業で他社に対し)千葉では連戦連勝だった。一体なぜ」と思ったという。
伊井哲朗さん(57)は本社で、メインバンクだった富士銀行(現・みずほ銀行)に示す経営再建案をつくる業務に携わっていた。破綻の数日前、上司が「終わったわ。これ」とつぶやいたのを覚えている。米格付け会社が山一を格下げし、資金繰りの見込みが途絶えた瞬間だった。
ロンドン駐在だった中嶋健吉さん(70)は、破綻直前、英国の金融当局から何度も「潰れるのか」と聞かれた。「日本の大蔵大臣は『潰さない』と言っている」と繰り返した。
山一破綻の原因となったのは、約2600億円にのぼる「簿外債務」だった。株価が下落する中、顧客の有価証券の含み損が表面化しないよう損失を簿外に隠し、虚偽の有価証券報告書をつくっていた。歴代経営陣は問題を隠し続けたが、ついに表面化し、自主廃業に追い込まれた。
現場の社員には寝耳に水だった。自主廃業発表の翌日から残務整理に追われた。全国の支店で取り付け騒ぎが起きた。顧客一人一人に事情を説明し、いったん帰ってもらい、順次、対応していったという。
「山一には、こんなにお客さんがいたんだ」。伊井さんは長い列をつくる顧客を見て改めて思った。「社員は皆、ものすごい使命感で、能力を最大限に発揮し、最後まで誠実に対応した」。残務整理の正確さと誠実さについて、元社員たちの証言は一致する。
中嶋さんはこう言う。「なぜ、これだけ立派な社員がいた山一は潰れてしまったのか」
「社の暗部知る人間、偉くなる」
元社員は多くのことを破綻から学んだという。
伊井さんは後にコモンズ投信を…