スポーツジャーナリストの中西哲生さん
川崎フロンターレがついにJリーグを制覇しました。創設21年目の悲願達成に、かつてキャプテンを務めた自分も「おめでとう」と言われるのですが、それ以前にサポーターのみなさんに「おめでとうございます」と伝えたいです。
サッカーJ1、川崎が悲願の初優勝 得失点差で鹿島逆転
常々フロンターレの選手は「我々はサポーターに支えられたチーム」と口にします。何度もタイトルに近づきながら優勝できず、主要タイトルで8度の準優勝。それでもブーイングもせず温かく見守ってくれたサポーターたちが地道に長く応援した結果、初タイトルとなりました。
逆転優勝の足がかり
今年のフロンターレは、何度も奈落の底に突き落とされました。元日の天皇杯決勝は鹿島に延長戦の末に負け、ACL準々決勝では、第1戦で優位に立ちながら、第2戦で浦和に大逆転負け。ルヴァン杯決勝でもセレッソ大阪に敗れました。それでも選手たちは前を向き、戦い続けました。
中でも10月14日の仙台戦は0―2とリードされ、しかも退場者が一人出ていた中で、残り10分を切ったところから5分間で3点をとって逆転勝ち。通常ならば追いついた時点で勝ち点1で十分という展開ですが、「勝ち点3を積み上げないと逆転優勝はない」と、全員が3点目をとりにいくことを疑っていなかった姿勢が、奇跡の逆転優勝につながっていったのです。
「頭の中が空っぽになった」
ただルヴァン杯決勝に負けた後の選手の喪失感は、かなり大きいものがありました。その2日後の夕方。中村憲剛と連絡をとった時のことです。その日、彼は撮影の仕事で、ボールを蹴らなければいけない場面がありました。その時のことを、こう話していました。「負けた後、ああでもない、こうでもないとずっと考えていた。ただボールを蹴ったら、すべての考えが頭から吹き飛んだ。ボールを丁寧に相手に蹴る作業が、こんなに自分の頭の中を空っぽにしてくれるなんて。テツさん、サッカーってやっぱりすごいですね」
中村憲剛の姿が人の心を動かすのは、心の底からサッカーを楽しんでいるからです。優勝の瞬間、テレビには彼が涙を流してピッチにひれ伏す姿が映りました。純粋にサッカーが好きで、そのすばらしさを伝えようとしている人間が見せた感情の素直さが、多くの人々の心を動かしたのです。沸き立つホームスタジアムに、中村憲剛は「この風景をずっと待っていた」と話していました。純粋にフットボールの美しさを信じる彼の生き様が、悔しい思いを何度しようとも選手を後押しするサポーターの温かさにつながっていたのです。
中村憲剛「長すぎて」 川崎一筋15年、悲願のV
風呂おけとフロンターレスタイル
優勝シャーレ(銀皿)が、前節まで首位にいた鹿島が試合をしていたヤマハスタジアムにあったため、シャーレが刻印された風呂おけを優勝の瞬間に掲げたところにも、ユーモアとともに、ピンチをチャンスに変えるフロンターレの良さと、地元を大事にするクラブの姿勢が表れていました。選手たちが何の照れもなく、むしろ誇りを持って風呂おけを掲げることができたのも、Jリーグで唯一、「フロ」がクラブ名につくことから地元の浴場組合と合同イベントなどに取り組む活動を続けてきたからです。また、優勝の確率が非常に低い中でも、その風呂おけを準備してきたクラブスタッフに改めて感服します。
川崎が掲げたシャーレは風呂おけ 本物は鹿島試合会場に
天皇杯決勝で鹿島に負けた時は、「サポーターが選手にもっと厳しくするべきではないか」という声も聞こえました。もちろん、それも一つのスタイルです。鹿島や浦和をはじめ、サポーターの叱咤(しった)激励は選手の力になっています。でも、Jリーグクラブの中で、フロンターレのようなスタイルがあってもいいと個人的には感じています。
フロンターレの優勝は、Jリーグクラブの多様性という意味でも、新たな歴史の一ページをつくってくれました。これからも多様性に富んだリーグであって欲しい。そして、もしフロンターレを驚かせるようなチームが誕生すれば、Jリーグはさらに進化するはずです。
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なかにし・てつお 1969年生まれ、名古屋市出身。同志社大から92年、Jリーグ名古屋に入団。97年に当時JFLの川崎へ移籍、主将として99年のJ1昇格の原動力に。2000年に引退後、スポーツジャーナリストとして活躍。07年から15年まで日本サッカー協会特任理事を務め、現在は日本サッカー協会参与。このコラムでは、サッカーを中心とする様々なスポーツを取り上げ、「日本の力」を探っていきます。