(1994年決勝 佐賀商8―4樟南)
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記録的な猛暑に見舞われた1994年夏の選手権は、神がかり的ともいえる満塁本塁打によってフィナーレを迎えた。
全国制覇を果たし、抱き合って喜ぶ佐賀商の選手たち
4―4で迎えた九回表。2死満塁で打席に立った佐賀商の西原正勝は、不思議な感覚を味わった。「ボールが投手の手を離れてから少しずつスローモーションになっていったんです」。初球から積極的に打つタイプではなかった。しかし、初球の低め直球に体が勝手に反応。ボールがバットに当たる瞬間まで、はっきり見えたという。究極の集中状態だった。打球が左中間席に届く前から西原は右手を突き上げていた。
西原は後の取材で「試合直後は『直球を狙っていた』と言いましたが、興奮して思わず出た言葉。直球がくる予感はあったが、本当はなぜ初球から打ったのかも分からないんです」と振り返った。ベンチに戻ると手がぶるぶると震えていたという。「野球人生で一度きりの体験でした」
佐賀商―樟南 九回表佐賀商2死満塁、西原は左中間席へ決勝の満塁本塁打を放ちガッツポーズ
24年前のシーンを、エースの峯謙介は「一瞬、グラウンドの歓声が消えた」と記憶している。裏の投球に備えて一塁ベンチ前でキャッチボールをしていて、満塁本塁打の打球がよく見えなかった。「何が起こったんだろうと……。そしたらまた歓声がワーッとなって、それで初めて満塁本塁打だと分かりました」。峯にとって、周囲の音が耳に入らなくなるほど強烈な瞬間だったのだろう。
2年生だった峯は、佐賀大会では背番号「11」。甲子園で「1」を背負ったが、スタミナに自信があったわけではない。冬場に練習過多で足がはれあがり、2カ月ほど練習できなかった。そこで、投球術の改善に取り組んできた。「全力投球は頭になかった」。マウンドで次打者の素振りにまで目を配り、狙い球を外す技術を磨いた。
甲子園で努力が実った。準々決勝から3連投のマウンド。体が重く二回に3点を失い、あと1失点で投手交代だったという。そこから立ち直った。途中から疲労のため軸足に力が入らなくなったが、打者への集中力は研ぎ澄まされていった。「七、八回は投球内容もはっきり覚えていない。なぜ抑えられたのかもよく分からない」。6試合で計708球。峯以降、マウンドを1度も譲らずに夏の全国選手権の頂点に立った投手は、出ていない。
九州勢同士が決勝を戦ったのは、第76回大会の1度きりだ。大方の予想は「樟南有利」だった。樟南は前年春夏の甲子園でも活躍した福岡真一郎と田村恵の強力バッテリーを擁し、大会前から優勝候補に挙がっていた。佐賀商は「無印」で、田中公士監督は試合前から「大差で負けるかも」という不安でいっぱいだった。
佐賀商-樟南 樟南を破って初優勝し、マウンド上で万歳をする佐賀商の峯。後方は三塁手の山口。がっくりする樟南の一塁コーチ和才(手前)
当時の朝日新聞鹿児島版に掲載されたエピソードが、両校の「格」を如実に表していて面白い。開会式リハーサルで、樟南バッテリーを佐賀商の控え選手数人が遠巻きに見ていた。居合わせた記者が「声をかけてみたら?」と促すと、佐賀商の選手は「いえ、後ろから見ているだけで十分です」と答えたそうだ。
そんな佐賀商の優勝は多くの県民に勇気を与えた。後年、朝日新聞西部本社の「私と高校野球」という企画で読者の投書が紹介された。「『佐賀ってどこ?』と尋ねる多くの友人の中にいて、なぜか自分が佐賀出身であることが恥ずかしく思えた時もあった。しかし、優勝でそんな思いもどこへやら。佐賀県人であることを誇りに思えた」
準優勝に終わり応援席にあいさつした後、田村(左端)に抱きかかえられてベンチに戻る樟南の福岡。右は枦山監督、その右は川崎部長
田中監督は、普通の高校生でもやればできることを目の当たりにした。だから「近いうちにまた佐賀勢が優勝するかも」と思っていた。予感は13年後の2007年、佐賀北による「がばい旋風」で現実となった。(吉村良二)
佐賀商・峯謙介さん
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〈みね・けんすけ〉 1977年、佐賀県多久市出身。佐賀商2年の夏、6試合を1人で投げ抜き優勝投手となった。JR九州を経て、現在は同県小城市の医療法人ひらまつ病院ひらまつクリニック事務長。