選抜大会で選手に指示をする小島紳監督=4月3日、兵庫県西宮市の阪神甲子園球場、内田光撮影
今春の第90回記念選抜高校野球大会で、三重の小島紳監督(29)が平成生まれ初の甲子園監督となり、49年ぶりに4強入りを果たした。バントを極力使わない「イケイケ野球」で、強豪の日大三や星稜を破り、優勝した大阪桐蔭も準決勝であと一歩まで追い詰めた。若き指揮官は、エリート街道のど真ん中を歩いてきたのかと思いきや、その素顔は意外なものだった。
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小島監督の朝は午前4時半ごろに始まる。もうすぐ1歳になる長女・禾奈(かんな)ちゃんが目を覚ますからだ。眠い目をこすりながら、枕元でじゃれつく娘と遊んで、保健体育教諭を務める三重高に出勤。野球部の指導を終えて、帰宅するのは午後9時ごろだ。
禾奈ちゃんは寝ているが、元管理栄養士の妻が作る夕食を食べ、疲れを癒やす。家では野球の話をしないのがポリシーだ。「良いパパでないと生徒たちに顔向けできないでしょ」と笑う。
小島監督は部員たちに「やるべきことをやっているからこそ得られる『普通』の人生を送ってほしい」と願うからこそ、家族との時間もおろそかにしない。選抜の時も、家族を兵庫県まで連れていった。「娘がめちゃくちゃかわいい」。家族の話になると、目を細める。
2014年夏に甲子園準優勝を果たした中村好治・前監督(現総監督)から、監督への「昇格」を打診されたのは17年夏。禾奈ちゃんが生まれた2日後のことだった。そこから1年足らずで甲子園4強を果たした指揮官だが、自身の現役時代は挫折だらけだった。
愛知県出身。小学1年で野球を始め、6年の時には身長170センチ以上あった。高校は愛知の強豪・中京大中京に入学。1年秋には捕手としてベンチ入りも果たす。
その頃から肩に痛みがあったが「ボールを投げない冬のトレーニング期間で治るだろう」と、痛みを隠して練習をした。
2年春、肩が上がらず、関節唇損傷の診断を受けた。手術を受けることになり、医師から1年間はボールを投げられないと告げられた。手術後は「2軍」にあたるBチームの主将に。腕をつりながら、試合には出られなくてもチームをまとめた。「一度始めたことは最後までやりきろう」と決意した。
3年生の時、現在、プロ野球広島でプレーする堂林翔太選手が入部した。捕手として、当時投手だった堂林選手の球を受けた。「堂林は人なつっこくて愛嬌(あいきょう)がありました」。小島監督は「俺たちの分までやってくれよ」と声をかけたこともあったという。
3年生だった07年夏、応援団長としてスタンドから声援を送った。チームは愛知大会決勝に進んだが、愛工大名電に敗れ、3年間で1度も甲子園に行けなかった。
野球への思いは断ち切れず、国立の三重大学でプレーを続けるが、肩は完治していなかった。全国屈指の強豪で野球や勉強に打ち込んだ高校時代と、大学の自由度の高さにギャップを感じ、「1、2年の時は腐っていた」。髪を金色に染め、ふらふらと過ごした。
そんな自分を変えたのは、母校の後輩たちだった。09年、3年生になった堂林選手らが夏の甲子園決勝で、日本文理(新潟)の猛追を振り切って1点差で逃げ切り、全国制覇を成し遂げた。
「あいつらが活躍する姿が本当にうらやましくて、もう一回野球をやりたいと思った」。肩も癒え、本気で野球部に関わるようになると、4年の時は主将も務めた。
中学のころから学校の先生になりたいと思っていた。三重大OBに声をかけられ、卒業後に三重に着任。野球部副部長になった。
小島監督は、副部長時代から野球の技術以上に生活指導に重点を置く。「学校生活、ルール、マナー。きちっとやっているからこそ、大舞台でも信頼して試合に出せます」。高校時代の挫折も、部員と共有しているという。
理想の監督像もない。強いて言うなら「カメレオンみたいな監督」を目指す。「あくまでも主役は選手たち。彼らに寄り添って、柔軟に学んで成長したい」
選抜4強になり「もうLINEが嫌いになった」と冗談めかすほど、小島監督のもとにはたくさんのメッセージが寄せられた。「でも、野球は生活の一部。特別視されることじゃない」と言い切る。
選抜では日大三・小倉全由監督、大阪桐蔭・西谷浩一監督にもひけを取らない采配ぶりだった。でも、自身は「名将」と呼ばれたいわけではない。「子どもたちのためにやっている。それだけですね」。自然体で夏の100回大会に挑む。(甲斐江里子)