(1992年2回戦 県岐阜商1―0熊本工)
一つ増えたベンチ入りメンバーの枠が、球児の夏を変えた。1992年夏、岐阜大会直前にできた背番号18。この「18」を手にした投手の存在が、高校生が秘めた可能性を物語る。
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8月20日、2回戦の県岐阜商―熊本工は、息詰まる投手戦になった。一回1死二、三塁から救援した熊本工のエース坂田正樹が後続を断つと、県岐阜商は先発の背番号10がゼロを並べる。岐阜大会で「18」をつけた高橋雅巳だ。
甲子園でも背番号10で好投した県岐阜商の高橋投手
「(坂田は)49校の中で一番速い投手。あっちが剛なら、こっちは柔。スピードじゃないというのを見せつけたい」と高橋。右上の剛腕に対し、右下手からなめらかに投げ込んだ。
高橋は、土壇場で背番号を得た投手だった。この夏の大会直前に岐阜県高校野球連盟が「少しでも多くの選手に背番号を」とベンチ入り枠を前年までの17人から18人にした。6月中旬に朝日新聞の岐阜版に掲載された各校のメンバー紹介も17人まで。そこに高橋の名前はなかったのだ。
3年生で迎えた岐阜大会前のメンバー発表を高橋は思い出す。「(控え投手は)だいたい10番か11番。11番でも呼ばれず、『ああ、終わったな』と思ってあきらめとったら、18番で名前を呼んでもらえた」
転機は前年の春。県内にいた下手投げの好投手対策として、上投げから下手投げの打撃投手になった。当時の部長、故・森川豊が数人の投手を呼んで言った。「アンダースローをやってみろ。生きるか死ぬかは、おまえら次第だ」。その投げ方が高橋にピタリとはまる。「アーム式だった投げ方が、ひじをうまく使えるようになった」。多いときで300球。打者に投げ込んで培った制球力が、その後の武器として生きた。
高橋雅巳さん
岐阜大会で安定した投球を見せた高橋は、当時ベンチ入りが15人だった甲子園で「10」をつける。初戦の鹿児島商工戦は先発で7回2失点。チームは1―2の九回に2点を奪い、逆転サヨナラ勝ちをおさめた。
熊本工戦で高橋は四回1死三塁、五回無死三塁の場面をゴロを打たせて切り抜ける。「(下手投げで)ボールは自然にシュートして、うまい具合に落ちていく。あのときは神がかったようにうまくいった。自分のイメージでは、詰まらせて内野ゴロだった」
九回。1死二塁から高橋を救援した背番号1の高井公洋がピンチをしのいだ県岐阜商はその裏、四球でこの試合初めて無死からの走者を出す。犠打と単打で1死一、三塁。6番・石田幸人がフルカウントになると監督の小川信幸(現・朝日大野球部長)が勝負に出た。スクイズ。坂田の高めの直球を石田が三塁線に転がすと、三塁手はどこにも投げられなかった。
1―0。2試合連続サヨナラ勝ち。「岐商らしい、少ないチャンスをものにして勝つ野球が出来た」と小川が振り返る。
九回裏、県岐阜商は1死一、三塁から石田のスクイズでサヨナラ勝ち。三塁走者横井がガッツポーズ。捕手田辺、次打者高井①
遮二無二投げていた高橋に甲子園の試合中の記憶はほとんどない。「ビデオを見て『ああ、よかったな』って。(スクイズは)すごかったですね」と笑う。
県岐阜商は3回戦で東邦(愛知)に0―1のサヨナラ負けを喫し、涙をのんだ。先発高橋は九回無死から三塁打を許して降板。それでも、3試合の好投で全日本高校選抜に選ばれた。
「よく試合ごとに成長すると言うけれど、彼は1球ごとに成長していくようだった」と小川。岐阜大会で18番目の選手に選んだのは同級生の学生コーチの推薦だったという。「打撃投手を一生懸命にやって、誰が見ても高橋ならと思えた。『18』がなければ、いま思うとぞっとしますね」
小川信幸・元県岐阜商監督
下手投げの打撃投手から始まった甲子園への道。高橋は「あのマウンドに絶対にのぼるんだという気持ちはずっと持ち続けていた。『17』までだったら無理だったかもしれないけれど、『18』という枠が出来たことで、自分が甲子園に行けた。感謝しています」(上山浩也)
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高橋雅巳(たかはし・まさみ) 1974年、岐阜県関市出身。3年夏の甲子園で3試合、計23回と3分の1を投げ3失点。近大、NTT東海でも投手を務めた。