米軍機が墜落した二又瀬橋付近で当時の状況を語る吉原学さん=2018年5月27日、福岡市博多区、日吉健吾撮影
米軍機ファントムが九州大箱崎キャンパス(福岡市東区)に墜落した事故から2日で50年になる。これを機に反基地運動が高まり、「米軍板付基地」の大半が返還されて福岡空港になったが、一部に米軍の施設が残る。福岡では、戦後の占領時代から100件以上の米軍機事故が繰り返され、遺族らは痛ましい体験の記憶を抱え続ける。
板付基地の滑走路から約1キロ。現在の福岡市博多区の二又瀬橋付近に、米軍機が墜落したのは1951年5月10日のことだった。
橋のそばに住み、一部始終を目の当たりにした吉原学さん(89)は、事故機の破片とみられる約20センチ四方の銀色の金属塊を見せてくれた。
「あの事故からしばらくして、近くの溝の中で見つけたものです」
製麺業を営んでいた吉原さんは事故当日の午前8時ごろ、配達に出るため家の前にいた。青い稲妻が光ったように見え、ドーンという音が響いた。
米軍機は、吉原さん宅から数十メートル離れた木製電柱や木にぶつかり、数軒隔てたしょうゆ工場の煙突に衝突して墜落した。米軍機に取り付けられた補助燃料タンクが向かいの家に落ち、炎上。吉原さん宅の屋根には、折れた木製電柱が飛んできて刺さった。この事故で計11人が亡くなった。
50年6月に朝鮮戦争が始まり、多くの米軍機が板付基地から出撃していた。いつも、手が届くように思えるほど低空を飛び、通り過ぎる際には家がガタガタと揺れた。「いつか落ちるのでは」という不安が現実になった。
55年6月15日には、近くの田んぼにいた親戚の女性が、米軍機の不時着事故に巻き込まれて亡くなった。
吉原さんは空を見上げて語った。「私が助かったのは、本当に不思議」
■まさか自分の家に…生死を分け…