本拠スタジアムの壁には、今も中田英寿のペルージャ時代の雄姿が描かれている=4月13日、イタリア・ペルージャ、稲垣康介撮影
4年に一度、この星に暮らす人々を最も熱狂させるスポーツの祭典がやってくる。サッカー・ワールドカップ(W杯)。だが今回のロシア大会には、いつもいるはずのあの国がいない。優勝4回を誇るイタリアだ。欧州予選プレーオフで敗れ、1958年スウェーデン大会以来の予選敗退の憂き目に遭った。
二度の倒産 ヒデ旅立ち後のペルージャ
日本の対戦国・セネガル、ガラガラのスタンド
【特集】2018ワールドカップ
カルチョ(サッカー)が生活に根を下ろすイタリアの国民が、60年ぶりに迎える「寂しい夏」だ。人々は今、カルチョにどんな思いを抱くのか。
4月、中世の趣を今も色濃く残す古都のスタジアムを訪ねた。日本サッカーが欧州で確かな一歩を刻んだ、思い出の街だ。
イタリア中部ペルージャ。ちょうど20年前の秋、この街が日本で一気に有名になるニュースが駆け巡った。9月13日、ペルージャに入団した21歳の中田英寿がイタリアリーグ1部(セリエA)のデビュー戦で、3連覇を狙うユベントスから2ゴールを奪う鮮烈な活躍を見せた。相手チームには、その夏のW杯フランス大会で世界一に輝いたフランス代表のジダン、デシャンやイタリア代表のデルピエロ、インザギらスターが顔をそろえていた。
「現場」となったのは高台にある中心部から車で15分ほど走ったところにあるレナト・クーリ競技場。中田が所属していたころに取材して以来、19年ぶりに訪ねると、鉄骨がむきだしのスタジアムは当時と全く変わっていなかった。2000年代以降、英国、ドイツなどのスタジアムはVIPルームや博物館が併設されるなど豪華路線をひた走るクラブが多い中、まるで時が止まっていたかのような錯覚に陥る。
中田とゆかりのある人たちと会うことができた。
チームで選手のマッサージをするレンツォ・ルキーニの思い出は鮮明だった。「たしか、中田の初練習だった。朝、練習場に着いたら、ピッチの真ん中に、トラックがあった。中田の練習を生中継すると。前代未聞の出来事だった。そして、あのユベントス戦のゴールが物語の始まりだった」。フットボーラーとしての中田の資質、姿勢については、「フィジカルが強い選手だった。背丈のプロポーションのバランスがいい選手だ。筋肉のつき方も。自分の肉体をよくケアする選手だった」。
中田が入団したときの監督だったイラリオ・カスタニェルに会うことができた。獲得の経緯について、明かしてくれた。
「1998年フランスW杯をテレビで見ていて、彼の魅力を発見した。パスを受ける前に、すでに次の展開を考える判断力を持っていた。彼のような能力を持った選手を私は欲していた。だから、ペルージャの会長に獲得すべきだと進言したんだ」
実際にチームに加わると、予想にたがわぬ活躍をみせた。「ペルージャで中田はリーダーの役割を見つけた。自分が彼に責任を持たせることによって、彼の実力をより引き出せたと自負している。ローマやパルマなど、その後移籍したクラブの監督も、私が与えた役割を担わせれば、もっと輝けたと思う。結果的に、中田がイタリアで一番楽しかったのはペルージャの時代だったのではないか」
スタジアム脇でカフェを営むアルベルト・トマッシーニは「ヒデ」を息子のように語る。「試合の思い出はたくさんありすぎて、どれとは言えないけれど、とにかくスペクタクルな試合で多くの感動をくれた。再会したら、抱きしめたいよ」。日本からのスタジアム見学ツアーでは、大型バス3台に分乗し、150人ほどのファンが押し寄せたという。
こうしたフィーバーぶりは中田の心を閉ざした。常駐して一挙手一投足を追う日本メディアとの関係は決して良好とは言えなかった。そんな中、地元紙のスポーツ担当だったマテオ・グランディは個人的にも交流を持った友人のひとりだった。今はペルージャでファッションなどを扱う雑誌の編集を手がけている。
「入団のときの狂騒曲、そしてデビュー戦のゴールと、すべてが衝撃的だった。イタリアのすべてのスポーツ紙、テレビが日本からセリエAにやってきた新星に沸いた。私にとっては中田との出会いは、サッカー選手に持っていたある意味の偏見が消えるきっかけにもなった。ファッション、文化、美術など、サッカー以外のことにもすごく知的好奇心が旺盛なのに驚かされた。そういった点でも、とてもユニークだった」
中田とペルージャの蜜月は長くなかった。2季目の途中の2000年冬、ローマへの移籍が決まったからだ。移籍金約4億5千万円でJリーグ平塚から手に入れた日本の若者が、1季目で10ゴールを挙げる予想以上の大活躍を見せ、移籍市場の相場は一気に高騰。ACミラン、ユベントスなど名門クラブが触手を伸ばすなか、ローマが約17億円を積み、ペルージャは手渡した。中田の特需が終わりを告げた。トマッシーニのここからの述懐は、少し哀愁を帯びた。「中田がローマに移籍した後、多くの困難に直面した。クラブは倒産に追いやられ、どん底のアマチュアリーグまで落ちた。でも、当時のガウチ会長のことを悪くいうつもりはない。ナカタのような素晴らしい選手を連れてきてくれた。あの時代は、太陽が輝くようだった。自分は美しい思い出のまま胸にしまっておきたい」
ペルージャは2度の経営破綻により、一時はアマチュアリーグのセリエDまで降格した。その後、現オーナーの下、セリエB(2部)まではいあがった。
取材に訪れた週末は、懐かしのカードがあった。ペルージャ対ベネチア。1999年、当時中田と共に日本代表の中核だったMF名波浩がベネチアに在籍し、10月23日、ペルージャでセリエA初の「日本人対決」が実現した。
ベネチアもその後、セリエAから陥落し、再建の途上にある。
4月14日、初夏のような日差しを浴びるレナト・クーリ競技場には、チームカラーの赤いユニホームを着たペルージャのサポーターたちが大挙して押し寄せた。ユベントスなどのビッグクラブが来るわけではない2部の試合だからメインスタンドは空席が目立つが、サポーターが陣取るゴール裏は満杯だった。試合は1点を先行されたペルージャは後半終了間際に追いつき、セリエA昇格の可能性を残す両チームの対決は引き分けに終わった。
試合後の記者会見で、質問をぶつけたい人がいた。ベネチアの監督を務めていたのはフィリッポ・インザギ。06年W杯でイタリアが世界一に輝いたときのストライカーで、中田がペルージャでデビューし、ユベントスから2ゴールを決めた試合で、ユベントスの先発メンバーに名を連ねていた縁があった。
この日の試合についての総括が一段落したころ、質問をした。
中田が2ゴールを決めた、20年前のこと、覚えていますか?
「昨日のことさえ、忘れるのに、20年前のことは覚えていないよ。この試合の後、また次の試合があるからその試合を覚えているのは難しい……。ただ、中田とは対戦したし、僕の友達だから、再会したら、喜んで彼にあいさつするよ」
セリエAに昇格できるかどうかは、自分の監督としてのキャリアを左右するだけに、20年前の郷愁に浸っているような余裕はなかったのかもしれない。
そのコメントを会見場で聞いていた地元紙のペルージャの番記者、フランチェスカ・メンカッチが言った。「忘れるはずはないわよ。ナカタはあんなにすごいことをやったんだから。あの試合を記憶から消し去ることなんて不可能だから。インザギのコメントはウソよ」。まるで、自分の名誉を無視されたことのように、少し怒ったように話してくれた。
イタリアの人々にとって、日常はカルチョと共にある。週末になれば、家族、友人らとスタジアムに向かい、ビールを飲み、語らい、勝てば喜び、負ければ慰め合う。代表がW杯出場を逃そうと、それは変わらない。レナト・クーリはペルージャの人々にとっての社交場なのだ。
サポーターたちをカフェのオーナーとして見つめてきたトマッシーニに尋ねた。
あなたにとって、レナト・クーリとは何ですか?
「ロンドンにあるウエンブリー競技場とかに比べたら、レナト・クーリは年寄りかもしれない。建て直しが必要かもしれない。傷を負った馬のようで、僕のように年老いてはいる。ただね、私は、ここでクラブの降格や昇格など、サポーターと悲喜こもごもを味わってきた。神話が生まれた場所なんだ」(稲垣康介)