高校野球への思いを語る俳優の宇梶剛士さん=2018年5月17日、名古屋市中区、川津陽一撮影
少年時代に甲子園に憧れ、出場を目指していた俳優の宇梶剛士さん。夢はかなわなかったが、野球ができる喜びとは何か、強く感じて生きてきたという。
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子どもの頃から野球は国民的スポーツでしたし、とにかく野球さえやっていればそれで楽しかった。両親はともに忙しく、会えなかったり、家族としての気持ちが離れたりした時もありました。けど、野球だけはいいときも、悪いときもそばにあったなと思います。
小中学生の頃は、東京・国立のリトルリーグやシニアリーグに入っていました。中学2年からは部活の軟式野球もしていました。4歳年上で後に巨人の監督となる原辰徳さん(59)が当時、東海大相模(神奈川)で活躍していました。子ども心に東海大相模や東洋大姫路(兵庫)の名前をすらすら言えるのが、大人になったみたいで格好がいい。そんな風に思っていたこともありました。
いつか甲子園にも行きたいと思っていました。甲子園ってすごい、格好いいなと思い、自分が出たい、出るにはどうしたらいいのか、どの高校なら出られそうか、その高校にはどうやったら入れるかと考えました。人生の設計図みたいなものがありましたね。
ただ、進学した高校では野球部の指導がきつく、2年に上がるとき同学年の部員と練習をボイコットしました。当時から鼻っ柱が強く目立ったせいか首謀者にさせられ、グラウンドにはいるけど自分だけ練習をさせてもらえない日が続きました。嫌気がさし、暴力事件を起こして少年鑑別所に入りました。学校も野球もやめ、暴走族に入りました。転落人生の始まりです。
当時、自分の中では野球は憎さ100倍で、二度と見たくないと思っていました。それでも高校に残った野球部の同期の引退試合だけは、府中の球場に1人で見に行きました。特攻服を着ていたので目立ったと思います。当時の自分にとっては、精いっぱいの格好つけでした。野球という夢や希望が詰まっていた物がすっぽり抜けて、心が空っぽのような状態でした。埋めるものがなく、怒りや憎しみ、大人に対する不信とかそういうものでいっぱいになっていた。
少年院に入ったとき母がチャプリンの自伝を差し入れてくれたのがきっかけで、18歳の時に俳優の道を目指しました。30代半ばまでは俳優をしながらも、それだけでは食って行けず工事現場のアルバイトをして生計を立てました。自然と立ち話で野球の話がでると、耳は傾けていましたが、自分からは積極的にはなれませんでした。
野球への思いが再び変わったのは、2007年に岩手の社会人クラブチームの総監督をしたことですね。萩本欽一さん(77)が「茨城ゴールデンゴールズ」を率いて、社会的なブームでした。最初は「オレは野球にかかわっちゃいけないから」と断ろうと思ったんですが、高校時代の野球部の仲間から「野球好きだろ」って背中を押してもらいました。選手と一緒にベンチ入りし、マウンドに上がってピッチングもしました。
11年夏、日大三(西東京)と光星学院(現・八戸学院光星、青森)の決勝を初めて甲子園球場に見に行きました。妻が青森出身で、光星学院の野球部の方からお誘い頂いたのですが、その時も「甲子園なんて自分は一生涯、足を踏み入れてはいけない」と思っていました。ただ、妻の行きたそうな表情を見て行くことにしたのですが、スタンドからふと景色を見たとき、「ここか!」と胸に込み上げ、大泣きしてしまいました。ずっと甲子園という言葉を過剰に意識していたんですね。甲子園という言葉、響きは今も一番です。
これから夏の大会。日頃の練習の成果を思う存分発揮する舞台です。その舞台に立つ選手、残念ながら補欠の人も頑張ってきた自分をそれぞれ大いに感じて、かみしめて欲しいですね。
人生に失敗はつきものですから、恐れずに思い切って立ち向かって欲しい。僕は人生に「タラ、レバ」ってことは絶対に無いんだと、時は戻らないんだとかみ締め、悔しくてもそう思って生きてきました。
けど、高校時代に戻れたら野球をやりたいです。(聞き手・古庄暢)
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うかじ・たかし 1962年生まれ、東京都出身。83年「青森県のせむし男」で舞台デビュー。主演映画に「お父さんのバックドロップ」(2004年)。テレビドラマやバラエティー、CMなどでも幅広く活躍中。著書に「不良品」「転んだら、どう起きる?」。=川津陽一撮影