返還50年を迎える小笠原諸島。おがさわら丸が父島の岸壁を離れると、島の船十数隻が一斉に追いかける。「また帰っておいで」との思いで、島民は「いってらっしゃい!」と手を振って海へ飛び込む=2018年5月29日午後3時36分、東京都小笠原村の父島、朝日新聞社機から、恵原弘太郎撮影
戦後、米国施政権下に置かれた小笠原諸島(東京都小笠原村)は26日、日本に返還されて50年を迎える。都心から千キロ。絶海の無人島では欧米や太平洋諸島から来た人々と日本人が共に暮らしていたが、戦争で分断。戦後も長く島に戻れなかった。苦難を乗り越えた人々は今、故郷のすばらしさを思う。
終戦から23年の1968年6月26日、灼熱(しゃくねつ)の太陽の下、父島の米海軍司令部前の広場で返還式典が行われた。屋根にはためく星条旗が降ろされ、日の丸が揚がった。
その半月前、都職員の辻友衛(ともえ)さん(故人)は帰島準備の第一陣として父島へ渡った。米軍など約200人が使う所以外はジャングルのように荒れていた。「あんなに美しかった島が……」。当時の思いを「小笠原諸島概史」に書き残す。
八丈島出身の友衛さんは開戦直前、道路や兵舎を建てるため、父島に半年赴いた。当時18歳。「こんな素晴らしい島があったのかと、それまで八丈島が世界で一番と思っていた気持ちが一変した」。その後、祖父母の代から父島で暮らし、戦時中に八丈島に疎開したトメ子さん(87)と結婚。楽しかった父島の思い出を聞いて、「帰還を願う島民の力になりたい」と帰島の準備委員を希望した。
住宅や診療所、学校など生活基盤を整えるのに奔走した。戦前は野菜や果物、サトウキビ栽培も盛んだったが、畑は消え、野菜も手に入らず、缶詰と魚ばかりの食事が続いた。
「いま来ても苦労するから来なくていいって言われました。でも私も力になりたくて」。職員の食事係としてトメ子さんが9月に父島へ着くと、「欧米系」の旧友たちが集まり、「帰ってきた」と喜んで出迎えてくれた。
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