日本の新幹線にとって、「成功物語」となった台湾に対し、中国では苦い記憶が残る。大陸で高速鉄道の計画が本格化した1990年代以降、日中関係が大きく変わったことを映し出すように。
2006年3月。台湾向けの車両もつくった川崎重工の兵庫工場から、E2系が中国・青島港へ向けて出荷された。東北新幹線「はやて」ベースの時速200キロ級の車両である。
前年には小泉純一郎首相の靖国神社参拝などを背景に、中国各地で大規模な反日デモが発生していた。記念式典もない。青いラインの「はやて」は、ひっそりと東シナ海を渡った。
当初走らせる60編成(1編成8両)のうち3編成だけを完成車両で輸出し、あとは中国の国有企業と提携して中国国内でつくった。のちに300キロ級も受注したが、現地で生産した。
中国の構想は、北京―上海から始まった。欧州勢と競りあうなか、日本は中国とパイプを持つ竹下登・元首相を名誉会長に政官民で作る日中鉄道友好推進協議会を設立。98年には朱鎔基首相と北京で会見した。
野中広務・元官房長官は、新幹線の輸出を友好の象徴とみなし、「日本の援助で新幹線を走らせたい」と語っていた。中国の鉄道専門家たちにも「日本派」は少なくなかった。長い技術支援があったからだ。
06年11月のこと。中国鉄道省の会議室。張曙光・運輸局長に呼び出された日本大使館の西宮伸一公使が向き合っていた。
「ハルビンから大連まで日本に任せたい。寒冷地でもあり高度な技術が必要だ。新幹線方式でやってほしい」。同席した若い外交官は息をのんだ。あの「あじあ号」が戦前、走った路線だった。張氏は来日して日本企業を集めて説明もした。
結局、日本は断った。新幹線は零下40度もの地で走った経験がない。未成熟な技術を輸出できない。
理由は、それだけではない。中国政府や日中関係に振り回されてきた日本勢は不信を強めていた。「満鉄と重なる路線は政治的にどうせストップがかかる」
成長をとげた中国は、巨大市場を餌に引き寄せた日欧企業と自国の国有企業とを提携させ、技術を吸いあげた。浙江省での追突・脱線事故以降も拡大を続け、総延長は2万5千キロに及ぶ。世界の高速鉄道の3分の2を占め、日本の新幹線が50年余りをかけて築いた路線網の8倍の長さだ。習近平(シーチンピン)政権の政治スローガンを掲げた「復興号」が世界最速の350キロで走る。
いま、中国は日欧がライバルとして競う相手だ。
中国への新幹線輸出については見方が分かれる。JR東海の葛西敬之名誉会長は消極的だ。「輸出は産業政策だけでなく、安全保障や外交を加味して決めるべきだ」と主張する。東シナ海問題など安全保障で対立する中国とは距離を置くべきだ、と。
黒野元運輸次官は肯定的だ。欧州は先頭の車両が後続をひっぱる。かたや新幹線は、各車両にモーターを付けて列車を編成する電車方式。中国は後者を選んだ。「世界最大の市場で新幹線と同じ方式を採用させた意義は大きい。日本は高速鉄道の国際的な規格競争で勝った」