夫婦間のコミュニケーションのすれ違いを「脳の性差」で説明する『妻のトリセツ』(講談社+α新書)がベストセラーになっている。「脳科学本」はこれまでもたびたび話題を呼んでいるが、科学的根拠はどうなのか、何が人々を引きつけるのか。
『トリセツ』の編著者は人工知能研究者の黒川伊保子氏で、累計部数は約35万部に達した。本では「女性脳は、半径3メートル以内を舐(な)めつくすように“感じ”て」「女性脳は、右脳と左脳をつなぐ神経線維の束である脳梁(のうりょう)が男性と比べて約20%太い」など、男性と女性の脳の機能差を示すような具体的なデータを出す。そして「いきなりキレる」「突然10年前のことを蒸し返す」など夫が理解できない妻の行動の原因を脳の性差と結びつけ「夫はこういう対処をすべし」と指南して支持を集める。
一見科学的に見える主張だが、科学者はどう読んだのか。
脳科学や心理学が専門の四本(よつもと)裕子・東京大准教授は、「データの科学的根拠が極めて薄いうえ、最新の研究成果を反映していない」と話す。たとえば「脳梁」で取り上げられたデータは、14人の調査に基づいた40年近く前の論文で、かつ多くの研究からすでに否定されているという。本に登場するそのほかのデータも「聞いたことがない」。
男女の脳の機能差はあるという研究は複数あり、四本さん自身もそれを否定しない立場だが、「集団を比較した平均値の差をもって、男性の脳はこう、女性の脳はこうと一般化することはできない。また、脳は個体差が大きく、さらに環境や教育など様々な要因から影響を受けて変わる。ひとつの因果関係だけでは説明できない」と話す。
また、四本さんは、『トリセツ』で女性の「理不尽な不機嫌」を「生まれつき女性脳に備わっている」母性本能に求めたり、「男性脳に、女性脳が求めるレベルの家事を要求すると、女性脳の約3倍のストレスがかかる」として、男性でもできそうな家事として「米を切らさない」「肉を焼く」などごく簡単な仕事だけをリストアップしたりする記述は、「ニューロセクシズム的」とも指摘する。
ニューロセクシズムとは2000年代に現れた言葉で、男女の行動や思考の違いのほとんどが、脳の性差によるかのように説明すること。四本さんによると「男女の行動の差は生得的な脳のせいで、解消できない」という考えを招く恐れがあるして、近年学術界で問題視されているという。
記者が黒川氏に主張の根拠を尋ねると、「『脳梁の20%』は、校正ミスで数値は入れない予定だった」とし、そのほかは「『なるほど、そう見えるのか』と思うのみで、特に述べることがありません」と回答があった。
先進国でつくる経済協力開発機構(OECD)の2007年の報告書は、「男女の脳ははっきり異なる」という主張などは科学的根拠が薄い「神経神話」として退けている。日本神経科学学会の研究倫理指針も、神経神話が脳科学への信頼を失わせる危険があるとしている。
第三者が目を通す論文の査読システムを避けたり、信頼できる方法を使わずに科学的な言説を装ったりする主張は、疑似科学と呼ばれる。UFOや超能力など研究「対象」が怪しいか否かではなく、あくまでも研究の「手法」に問題があるというものだ。
『なぜ疑似科学を信じるのか』の著書がある信州大の菊池聡(さとる)教授(認知心理学)は『トリセツ』について、「夫婦間の問題に脳科学を応用する発想は、科学的知見の普及という意味では前向きに評価できる。だが、わずかな知見を元に、身近な『あるある』を取り上げて一足飛びに結論づけるのは、拡大解釈が過ぎる。ライトな疑似科学に特有な論法だ」と話す。
これまでも疑似科学的、神経神話的な本は周期的にヒットしている。「人間は、因果関係を明らかにしたい志向性や、複雑さを避けたい思考のパターンを持つ。疑似科学は分かりやすさを求める人々のニーズに応えるため、支持を集める。血液型性格学や水からの伝言など枚挙にいとまがない」と菊池さんは言う。
人間関係を改善したいという悩みは昔から共通で、解決策として現在は「脳」という言葉を使うと信頼される傾向にあるという。論理的に誤りがある科学記事を被験者に見せる際、脈絡のない脳の画像を挿入するだけで記事への信頼度が高まったという実験もある。
菊池さんは「脳の研究は科学で最も“ブランド力”がある分野の一つ。新しい研究成果が出るたびに、疑似科学的な本が現れる」と分析する。(木村尚貴)