寄稿 川上弘美(作家)
恋愛というものの芯について知ったのは、自分の実際の恋愛からではなく、田辺聖子の小説からであったような気がする。
人は、恋をする。けれど恋愛のさなかにいる時には、恋愛のことはわからない。自身の恋愛についてわかるのは、恋愛が終わった時だ。ところが終わってしまえばすでに恋愛の姿は消えてしまっていて、その姿をふりかえってつかむことは、とても難しいことなのだ。そんな時、わたしはいつも田辺聖子を読んできた。恋愛って、いったい何だったんだろうな、ということを考えるために。
田辺聖子の小説は、たいへんに平明な言葉で書かれる。語り手は決して肩を怒らせず、目をきれいにみひらいてこの世界を見ている。恋愛のさなかにいても、彼女ら彼らはまず生きていること自体をおもしろがり、愉(たの)しむ。諧謔(かいぎゃく)の心にあふれ、会話のはこびはまことに生き生きとしている。こんなふうに書くと、田辺聖子の小説をまだ読んだことのない読者は、「楽しさにあふれた小説なのだな」と感じられるかもしれない。ところが、田辺聖子の凄(すご)いところは、楽しさや面白さの中に、なんともいえない怖(おそ)ろしさがあるところなのだ。
たとえば、ある小説の中には、一人の男を愛している女がいる。男も女を愛している。愛はすべてを豊かにする。仕事も、生活も、ものを食べることも、もちろん体を重ねることも、すべては愛のもとで、輝かしい。ところが、その輝かしさが永遠に続くことは、決してないのだ。時間が過ぎてゆくにつれ、美しかったものは爛熟(らんじゅく)し、爛熟したものは異なるものへと変化し、何ごともとどまることはできない。外圧からではなく、ただ時が流れたというそのことだけによって、二人のいた場所は崩れてゆく。
無常である。そうだ、田辺聖子…