2003年の大阪大会決勝。大商大堺・福家一範選手(右下)の二ゴロで試合終了となった=藤井寺球場
第98回全国高校野球選手権大阪大会が9日に開幕する。優勝して甲子園に出場する高校と同じ数だけ、涙をのむ準優勝校がある。「あと一つ」に迫ったからこそ見える景色、悔しさ、達成感――。その思いは後輩に受け継がれ、学校創立以来初めての甲子園を目指す原動力にもなっている。
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■大商大堺 「甲子園は想像の世界」
2003年の第85回全国高校野球選手権記念大阪大会決勝で、大商大堺(堺市中区)はPL学園に4―5まで詰め寄っていた。九回表、大商大堺の3年生だった福家一範さん(31)の前の打者が死球で出塁し、2死一、二塁のチャンスに。一打出れば甲子園、だめならゲームセット。藤井寺球場が歓声で震えていた。
福家さんは「100%初球を打つ」と決めていた。相手捕手の性格を考え、内角が来る確信があった。捕手は内角にミットを構えたが、実際にボールが来たのは外角低め。打った瞬間、「終わった」と思った。
一塁に向かうまで、スローモーションになった。走りながら、「これで終わりか。高校が終わったら、大学か」と考えていた。「3年間やりきったな」「この先、どうなるんだろう」
さらに、「これ、一塁にヘッドスライディングするよな。で、泣くよな。でもそれってみんな一緒やな」とまで考えていた。
間近に迫った一塁ベース。なぜか頭ではなくひざから滑り込み、そのまま正座するように、ベースを抱え込んだ。二塁ゴロ。ひざがズルむけになった。
「僕らには『ついに決勝まで来た』という思いが少しあった。PL学園は甲子園に行くという執念しかなかった」。その後、法政大に進学して野球を続けたが、今は介護サービス会社の社長を務める。
あの打席、思った通りの内角球が来てホームランにする――。そんな夢を今も見るが、甲子園に出た夢を見たことは一度も無い。「甲子園は死ぬまで想像の世界。今の大商大堺の選手にとっても、甲子園は想像だと思う。それが現実になってくれたら」と願う。
大商大堺は2年後の05年夏も決勝に進んだが、中田翔選手(現・日本ハム)らを擁する大阪桐蔭に敗れた。14年まで監督を務めた敷嶋義之さん(62)は同校を夏のベスト4にも3度導いた。「甲子園は近いと思っていたけれど、監督をやればやるほど遠くなるようだった」
現チームは昨秋の府予選で初優勝し、選抜大会につながる近畿大会に出場した。しかし初戦で敗れ、また甲子園を逃した。
エースの神田大雅投手(3年)は、大阪桐蔭の松山心選手ら中学時代のチームメートが今春の選抜に出場するのをテレビで見たという。「甲子園に行くためにやってきた」。先輩たちがあと一歩で立てなかった夢舞台。「今年こそ」という強い気持ちで挑む。
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大商大堺4―5PL学園 PL学園が先頭打者本塁打などで三回までに5点を奪い、3投手の継投で逃げ切った。大商大堺は三回に2点を返し、六、七回には1点ずつ加えたが、届かなかった。
■岸和田 12人の戦い、運あった
「十二人の小さな円陣がとけた」。1968年の第50回大阪大会決勝の始まりを、翌日の朝日新聞大阪版はそう記している。円陣を組んだのは、準優勝した岸和田(岸和田市)。部員が当時の登録選手枠(17人)に満たなかったからだ。
「打たれたことだけ覚えています。『コールドになるんじゃないか』と心配していたら、決勝はコールドが無かった」。エースだった長谷部優さん(66)は振り返る。準決勝まで6試合を1人で投げ抜いた。
決勝の相手は「私学7強」の一つ、興国。初回に2点を先取したのは岸和田で、長谷部さんが「20年野球をやって唯一」という本塁打を放った。しかし、「そんなのを打つからいけないね」。四回に追いつかれ、2―10で敗れた。興国はそのまま、夏の甲子園を制した。
「後から『あれが惜しかった』『これが惜しかった』と言うけれど、10人ほどで本当に甲子園に行けるとは思ってなかった」と長谷部さん。「運があった。みんな頑張っていたし」
進学校の岸和田に入学して野球部に行くと、すでに1年生がスタメンで練習試合に出ていた。普段の練習は6、7人。100人規模でしのぎを削る強豪私学とは全く環境が違った。
後に日本少年野球連盟(ボーイズリーグ)で副会長を務める佐々木勇蔵さんが、岸和田を熱心に応援してくれた。泉州銀行(当時)の頭取で、長谷部さんの両親が転勤で兵庫県に引っ越すと、佐々木さんの家に住んで学校に通った。夏の大会前は他の部員も泊まり、まるで合宿だった。
決勝で負けた後、「相手はすごい練習をしているから、負けてもしゃーない」と思った。ただ、「佐々木さんが期待してくれていたのになぁ」と悔やんだ。
同年に阪急ブレーブスがドラフト3位で指名したが、「野球は高校で十分」と拒否。慶応大で野球を続け、松下電器ではアマチュア世界大会の日本代表に選ばれた。「満足ですよ」と振り返る。
この夏、後輩たちは55人で大会に臨む。春の府予選は5回戦まで進んだ。北村颯都(はやと)主将(3年)は「甲子園は今までも『目標』だったが、春に勝ち進み、乗り越えなければいけないところが見えた。甲子園が遠い存在ではなく具体的になった」。
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岸和田2―10興国 岸和田が初回、長谷部の本塁打で2点を先取。興国は三回まで無得点に抑えられたが、計18安打で大勝した。
■桜塚 「夢みたい」 現実感なかった
1998年の第80回記念北大阪大会の決勝前。藤井寺球場の一塁側ベンチに、桜塚(豊中市)監督だった和田充司さん(56)が腰掛けていた。静かで、「夢みたいだなぁ」と思った。
取材は殺到し、応援も最高潮に達していた。ただ、「甲子園まであと1勝」という現実感はなかった。
相手は春の選抜準優勝の関大一。久保康友投手(現DeNA)を擁する優勝候補の本命だった。
初回、先頭打者が打席の後ろぎりぎりに立って速球をヒットに、4番打者は打席の一番前に立ち、曲がり切る前のスライダーに合わせた。和田監督が事細かに指示したわけではない。「個人個人が考えて打席に立っていた」。選手にのびのびプレーさせようとサインで縛らなかった。
桜塚の決勝進出は第48回大会(66年)以来2度目だった。この時のエースは故・奥田敏輝さん(元阪神)で、98年のエース・畠山将典さんと同じ右横手投げ。奥田さんも球場に応援に駆けつけたが、久保投手に要所を抑えられ、前回の決勝と同じ0―4で涙をのんだ。
和田さんは現在、母校の茨木で監督を務める。茨木も第29回大会(47年)で決勝に進んだが、まだ甲子園の出場がない。「甲子園は小学校のときから変わらない夢。一生に一度、行きたいところです」(荻原千明)
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桜塚0―4関大一 関大一が初回に適時三塁打で2点を先取。二、八回に1点ずつ加えて逃げ切った。桜塚打線はエース久保に5安打に抑えられた。