家具が散乱した海斗の部屋。中学校の野球部コーチからのメッセージが入った卒業記念ボールを見つけた=4月18日、熊本県南阿蘇村、遠藤啓生撮影
グラウンドに踏み入れると、スパイクの歯が土に食い込む感触が心地いい。自然に笑みがこぼれた。「ああ、やっと野球ができる」。熊本県内で死者・安否不明者50人もの被害をもたらした熊本地震から1カ月余り後。5月28日、約37キロ離れた別の高校で野球を再開した。
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開新高校(熊本市)の後藤海斗(3年)の自宅は4月16日の本震で震度6強を観測した南阿蘇村にある。
開新の部員は約90人。昨秋は県大会で8強まで上がった実力のあるチーム。レギュラーになれずとも、最後の夏、今のチームで甲子園に行きたい。そう思っていた矢先、本震が襲った。
自宅で就寝中、ベッドの下から突き上げられ、机やタンスが倒れた。窓から脱出した。自宅の隣は、東海大生が被害にあった学生アパート6棟のうちの1棟。倒壊したアパートの救出作業を一晩中、懐中電灯で照らして手伝った。ここで男子学生1人が亡くなった。
スマートフォンは余震のたび、緊急地震速報を鳴らした。揺れるたび「死」の恐怖がわき起こった。安全な避難所を求めて転々とした。スマホには仲間から安否を気遣う100件以上のメッセージが届いていた。
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4月末、開新の練習は再開したが、交通機関が回復せず行けなかった。避難所の中学校に高森高校(熊本県高森町)野球部の後藤隼人(3年)らがいた。「キャボろう(キャッチボールしよう)」。炊き出しなどの手伝いの合間、校庭の隅に集まった。避難のときやっと家から持ち出せた革の薄い軟式用グラブ。硬球を捕ると手のひらがしびれた。それでも毎日続けた。
「もう夏まで野球できないかも」。避難所の体育館で、隼人に漏らした。「うちに練習くるたい」。思ってもみない誘いだった。
5月の連休明けに授業が再開したが、通学手段は平日の朝夕の臨時バスだけで練習に参加できない。帰りのバスから見る空はまだ明るい。「みんなまだ練習しているんだろうな」。その毎日の中、18歳になった。
学校側に高森の練習に参加したいと相談した。調整が進み、週末だけ受け入れてもらうことになった。
高森は9人がやっとそろう小所帯。それでもチームの形で野球ができるのがうれしかった。ユニホームは違うが、「海斗先輩、しっかり!」と後輩から遠慮せず声をかけられた。目の前の光景が輝いて見えた。
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6月26日、開新で事実上の「引退試合」がやってきた。登録外選手の練習試合で背番号「12」をつけ一塁を守った。2カ月以上ぶりにチームメートと汗を流し、「これが開新。自分がいるチームだ」と感じた。
熊本大会初戦は地震から3カ月となる7月14日。「悔いは残さない」。応援で声をからす覚悟だ。
地震がなければ、この仲間とずっと一緒に夏を迎えたはずだった。避難所生活もなお続く。でも生きて諦めずに野球を続けたから高森の仲間にも出会えた。高森の初戦も応援に行くつもりだ。「野球、やっててよかったな」=敬称略(西村圭史)