被爆体験を語る梶本淑子さん。手先から皮膚が垂れ下がった様子を身ぶりを交えて説明した=7月21日、広島市中区、青山芳久撮影
被爆者は汗を流しながら、あの日始まった苦しみを今も語り続ける。
特集:核といのちを考える
広島平和宣言、オバマ演説を引用 市が骨子発表
「みなさんが聴いたことを一人でも多くの人と話し合ってください。平和が一日でも長く続くように、核兵器が一日でも早くこの世からなくなるように」
7月21日、広島市の広島平和記念資料館。広島平和文化センターが依頼する被爆証言者の1人、梶本淑子(よしこ)さん(85)=広島市西区=が、京都府久御山町から訪れた小中学生34人に71年前の体験を語った。
あの日、爆心地から2・3キロの飛行機部品工場にいた。14歳で学徒動員中。建物の下敷きになって火の手から逃げ出し、大けがをした友人を運ぶ途中、死体をまたいだ。裸足の感触、血の臭いが忘れられない。
「あなた方と同じ小中学生も一瞬にして焼かれ、亡くなった。核兵器が二度と使われないよう、どうか力を貸してください」
梶本さんは証言を始めて16年。年に100回以上、伝えた相手は延べ15万人を超える。4月に広島であった主要7カ国(G7)外相会合の折にも、メディア向けに体験を語った。
被爆して1年半後に父が死去。母の治療費を工面しながら弟3人を養うため働いた。「地獄を忘れたい」と長らく記憶を語ることはなかった。でも、孫たちから「原爆の体験を話さずに死んじゃいけん」と背中を押され、証言を始めた。
その数年後、米国の留学生らに…