1982年の韓国での全国高校野球大会に出場した山田隆悠喜さん=山田さん提供
かつて、在日コリアンのチームが韓国の高校野球大会に出場した。甲子園でも活躍した球児らが祖国の野球に影響を与えた――。あまり知られていない野球史を描いたドキュメンタリー映画「海峡を越えた野球少年」の上映が22日、関西で初めて大阪で始まる。
韓国では1956年、高校野球大会が朝鮮戦争からの「復興の象徴」として開かれるようになった。「在日同胞」の代表チームも招待され、97年までの42年間に計620人余りの在日の球児が参加。張本勲氏ら日本や韓国のプロ野球、実業団で活躍したり、発展に尽くしたりした人もいた。
映画「海峡を越えた野球少年」は、82年の大会で、在日代表チームの最高実績となる準優勝を果たしたメンバーを追っている。
山田隆悠喜(たかゆき)さん(52)=大阪府=は82年春の選抜大会に箕島高(和歌山)の三塁手として出場、ベスト8まで進んだ。当時は韓国籍で「山田俊漢(としかん)」という通名でプレーした。
幼いころから母親に「絶対に負けたらあかん」と言われて育ち、猛烈に練習。故・尾藤公監督からは、のちの結婚式で「こんなにひたむきに野球に取り組んだ選手を初めて見た」とほめられたという。
82年の夏は和歌山大会で敗れたが、「韓国の大会に出ないか」と声をかけられた。大阪府内での練習場に行くと、箕島のメンバーがほかにも数人いた。互いに韓国籍だと明かした記憶もなく、驚いたという。
韓国での大会では、在日の選手の失策に観衆が喜ぶこともあったが、山田さんは「試合に集中し、気にしなかった。『アウェー』というのは分かっていた」。決勝までの6試合で「完全燃焼」し、高校卒業後に野球からは離れた。
山田さんとともに出場した姜山(きょうやま)孝雄さん(51)=大津市=は、瀬田工(滋賀)の主将で二塁手だった。瀬田工には日本ハムなどで活躍した投手・西崎幸広氏もいた。82年春に甲子園の土を踏んだが、夏は滋賀大会の初戦で敗れた。「悔いが残り、納得できへんという思いがあった」。そんなとき、在日代表に誘われた。
当時の韓国は球場環境や道具が劣悪で、プレーも粗削りだが、韓国の選手の体の強さを目にした。祖国で野球ができたありがたみも感じ、「もっと野球がしたい」と愛知工業大で野球を続けることにつながった。
結婚を機に日本国籍に替えた姜山さん。「韓国系日本人」として「野球を通した韓国と日本のつながり」を知ってほしいと願う。
メガホンをとったのは、在日をテーマにした作品を手がけてきたキム・ミョンジュンさん(46)=ソウル在住=だ。日本での上映会などを通じて交流があった力武俊行さん(47)=大阪市=の協力を得て、山田さんら元球児を捜し出した。「野球を通しても日韓が緊密な関係にあることを伝えたい」。キムさんは話す。
大阪での上映は淀川区十三本町の第七芸術劇場(06・6302・2073)。神戸市中央区元町通の元町映画館(078・366・2636)でも11月5日から上映される予定。(編集委員・中野晃)