1939(昭和14)年ごろ撮影された茨木正勝さん一家。左から父、祖父、正勝さん、爆発で亡くなった母房子さんと弟恵巨さん=正勝さん提供
米軍が1945年7月、三重県四日市市に投下した模擬原爆について、市立下野(しもの)小学校教諭早川寛司(かんじ)さん(56)は着弾地点を突き止めたのに続き、爆発で亡くなったとみられる2人の身元を割り出した。同所に住んでいた軍属の夫の元に、疎開先の同県旧美杉村(現・津市)から会いに来た妻子で、当時の様子も遺族から聞き取った。
特集:核といのちを考える
「模擬原爆」着弾地を発見
模擬原爆は45年7月20日~8月14日、原爆を正確に照準地に投下するための練習として、18都府県の49カ所に繰り返し落とされた。
早川さんは四日市市の模擬原爆について、「犠牲者を特定して弔おう」と追跡していた。約40年前に出版された同県の戦争体験の手記から「真っ黒な雨傘をさかさまにしたような爆弾」という、ずんぐりした模擬原爆らしい形容の記述を見つけた。手記に記された時間帯や場所も、これまでの早川さんらによる現場での聞き取り調査と一致した。筆者の家族を通じ、遺族にたどり着いた。
亡くなったのは津市美里町家所(いえどころ)の元会社員茨木正勝さん(80)の母房子さん(当時29)と、次弟の恵巨(けいご)さん(当時8)だった。数十メートル先のため池の土手で爆発した爆弾の破片が木造官舎に飛び込み、房子さんの首や、恵巨さんの腹に当たったとみられる。6歳の三男、1歳の長女も家にいたはずだが、無事だった。
正勝さんの父は当時、四日市市…