神戸製鋼時代の平尾さん(中央)=1992年1月
日本ラグビー界を引っ張ってきた平尾誠二さんが今年10月、53歳で亡くなった。神戸製鋼によると、闘病中の5月に朝日新聞の電話取材に答えたのが、メディアによる最後のインタビューとなった。平尾さんは選手として何を目指し、日本のラグビーをどこへ導こうとしたのか。2019年ワールドカップ(W杯)日本大会の開幕まで24日であと1000日。平尾さんと縁があった2人の話を交え、「ラストメッセージ」を振り返る。
「最後は1点差でも勝つ」 平尾さん最後のインタビュー
特集:平尾誠二さん死去
日本代表が世界の強豪から初勝利を挙げたのは、1989年5月のスコットランド戦だ。26歳で主将に起用された平尾さんを中心に28―24で競り勝った。
それから27年たった今年6月、スコットランド代表が来日した。日本との対戦を前に、インタビューを申し込んだが、一度は断られた。平尾さんがゼネラルマネジャーを務めていた神鋼の中山光行広報は「平尾さんは極力、直接会って取材を受けた。体調も考え無理と思ったが、本人が『電話なら』と引き受けた」。
27年前の歴史的な勝利は、13歳年上の故・宿沢広朗監督の初陣だった。平尾さんは「それまでは年配の監督が多かった。宿沢さんとは時々、飯食おう、とか。兄貴分的な年齢の近さがあった」。カラオケで、「いとしのエリー」を歌ったことなどを懐かしそうに話した。「来日したスコットランドは5試合したが、代表戦前の4試合を見られたことが大きかった。そこで丸裸にできた。今みたいに解析技術が進んでおらず、直接、見ることが一番だった」
スコットランド戦の前半は20―6。平尾さんは「ラッキー。誰も予想していないリード。宿沢さんはえらい興奮しはって、『このまま行くぞ』と。でも、俺はこのまま行けない、と思った。20点をうまくいかして、食いつぶす戦法ですわ」と振り返った。後半、平尾さんの予想通り猛追を受けた。「彼らには絶対負けられないプライドがあった。それを覆すこちらの粘りが必要だった」。最後は4点差を守り切った。
その試合で、平尾さんとセンターを組んだのはトヨタ自動車で活躍した朽木英次さん(53)だ。「平尾は決して声を荒らげないが、試合中に言うことの8、9割は当たった。次第に平尾の後についていけばいい、という感じになった。逆に直接対戦した時は、自分がやろうとするプレーを全部読まれている錯覚に陥った」
平尾さんは勝因について、「相手に初めに点を持っていかれないことが、絶対条件。PGを狙わせるなど消極的な判断をさせる。世界の強豪はちょっと差が開くと、ガーッと持っていく。そうなると日本はもろい」と話した。日本が昨秋のW杯で挙げた3勝と戦術や戦略は違うが、戦い方の基本ではつながっていた。
平尾さんと親しかった土田雅人さん(54)は、今年9月中旬に一緒に食事をしたのが最後になった。同大では同期で活躍。平尾さんが代表監督の時は、コーチを任された。「ラグビーでも仕事でも人生でも、先を走っている彼を追い越したいと思ってきた。次は何を目指せばいいのか……」
今はサントリービバレッジソリ…