「浪人時代は中学校レベルからやり直しました」という上原浩治さん=安冨良弘撮影
米大リーグのシカゴ・カブスと1年契約を結んだ上原浩治投手(41)。40歳を超えても活躍している上原投手が、投手としての頭角を現したのは、1年の浪人生活を経て大阪体育大学に入ってからでした。19歳の浪人時代を忘れないように、背番号は「19」にこだわり続ける上原投手。「野球ができなかった1年間で忍耐強く勉強したことが、長く野球ができていることにつながっている」と話します。
著名人のインタビュー「受験する君へ」
◇
高校生の時、大阪体育大学を受験しました。大学でも野球はするつもりでしたが、プロは目指していなかった。ぼんやりと体育教師になりたかったんです。結果は推薦入試、一般入試ともに連敗。食事が取れなくなったというほどではないですが、ショックは受けました。20年以上前のことですが、思い出したくない過去。ただ、当たり前かなとも思っていました。高校時代は本当に勉強していなかったので。
■どの科目も嫌いだった
浪人して入った予備校では一番下のクラスに入り、中学校レベルの勉強からやり直しました。基本は何事も大事で、それは野球にも通じるところ。勉強は相当嫌だった。全部が嫌いな科目なんです。特に英語。「日本なのに、何で勉強せなあかんねん」って思っていました。国語も社会や理科にしてもそう。「何でこんなことしないとあかんねん」。勉強好きなやつはすごいと思います。今でも浪人生は尊敬します。
特につらかったのは、大学に進学した同級生が野球や他のスポーツで活躍しているニュースを見た時。「自分は何やってるんやろ」と不安になりました。同じ学校だった大介(大畑大介・元ラグビー日本代表)や、同学年だった由伸(高橋由伸・プロ野球巨人監督)は1年生からバリバリ活躍していました。彼らを見て、とにかく大学に受かりたいという思いを強くしました。
■「大学で投手を」が支えに
ただ、大学に早く受かりたいと思っても、コツコツやるしかないんです。一段飛ばしはできない。あの1年間でコツコツ勉強した結果、大阪体育大学にも受かることができた。それまで生きてきた18年分の勉強を1年でやりきった。そう言い切れるぐらいです。忍耐力がついたんだと思います。
また、投手をやりたいという思いも自分の支えになりました。高校時代のポジションは外野手。練習では打撃投手をずっとやっていました。試合にはほとんど出られませんでしたが、高3の最後の夏に控え投手として5~6イニング投げてみて、「大学で投手をやりたいな」という思いができたんです。高校の時は、野球部の監督からは投手をやれと何度も言われたんですが、走り込みが嫌で断っていた。でも大学に入ってから野球が面白くなって、もう一段上のプロでプレーしたいと思った。あの時、投手をやりたいという思いがなかったら、今はないかもしれません。
■背番号を見ると、原点に戻れる
巨人時代から今まで背番号はずっと19。来季から所属するカブスでも同じです。これは「浪人していて野球ができなかった19歳を忘れないように」という意味なんです。自分が何日も続けて打たれたり、結果が出なかったりする時にふと19番を見ると、「野球ができなかったあの時と比べれば、打たれようが野球ができている」。自分の原点に戻れるんです。
40歳を過ぎて野球が続けられるのも、あの1年があったから。メジャーに挑戦したのは34歳で、誰も僕が活躍するなんて思っていなかった。来年で42歳。チャンピオンリングを目指して、カブスでのプレーが待っています。新しいチームについては、どうなるんだという不安の方がワクワクより大きい。隠しても仕方がないので言いますが、この年齢だからか、体はそこらじゅう痛いです。時々、心も痛い。今でもマウンドに上がるとすごいプレッシャーがあるし、緊張もする。でも、不安だから練習するんです。受験も同じです。
今は受験生にとって不安な時期。誰だって不安はあります。みんなが不安を持っている。自分一人じゃない。ただ、努力しているのも自分一人じゃない。みんな努力をしている。最終的にはなるようにしかならないと思って、努力するしかないんです。一生懸命努力したやつのことを神様はきっと見ています。頑張ってください。
◇
うえはら・こうじ 1975年、大阪府寝屋川市出身。小学校から野球を始める。東海大仰星高では、3年夏に控え投手としてベンチ入り。1浪して、大阪体育大学に入学。巨人では、1年目から最多勝や最優秀防御率などを獲得。09年にボルティモア・オリオールズに移籍。メジャーでは、中継ぎ投手や抑え投手として活躍。13年には、抑え投手としてレッドソックスの世界一に貢献。来季からはシカゴ・カブスに所属。(聞き手・阿部健祐)