零戦の操縦席や爆弾の構造を図に描きながら説明する前田勲さん=山口県下関市、永井靖二撮影
「戦争の理不尽さを話しておきたい」。96歳の旧日本海軍の元整備兵から、朝日新聞に1通の手紙が届いた。太平洋戦争の傷痕が今も残る南洋の地をたどった企画「戦火の残響」を読み、そう思ったという。元整備兵が暮らす山口県下関市を訪ねた。
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■開戦知り書いた遺書
手紙を寄せた前田勲さんは自宅に記者を迎えた。
前田さんは1937年6月、志願して海軍航空科に入隊した。空母「龍驤(りゅうじょう)」の乗組員などを経て、41年11月1日に台南航空隊に配属された。
零戦が並ぶ格納庫。その前に、国籍を示す日の丸も迷彩色で塗りつぶした偵察機があった。「毎日、フィリピンやボルネオ方面のあちらさんの航空基地を、高高度から空中撮影してるんだよ」と先輩が言った。
12月になると、零戦に積んだ訓練用の弾丸が実戦用に。6日早朝、隊内に「全員10時に司令部前号令台前に集合。勲章のある者、携帯せよ」という放送が流れた。司令官は集まった隊員に「8日午前0時を期して米、英、蘭(オランダ)と戦端を開くことになった」と告げたという。
「予測はしていたが、現実に布告されると、みな静まりかえった」。前田さんは当時を振り返る。分隊では、誰が言い出すでもなく隊員たちが酒保(売店)で半紙と封筒を買い、遺書を書いたという。
開戦前夜は誰も寝付けなかった…