バス事故で亡くなった西原季輝さん=遺族提供
乗客・乗員15人が死亡した長野県軽井沢町でのバス事故が15日に発生から1年を迎えるのを前に、法政大3年だった西原季輝(としき)さん(当時21)=千葉県市川市=の母親が、代理人弁護士を通じて報道機関にコメントを寄せた。
娘の手帳、父の背中押した言葉 軽井沢バス事故1年
コメントは次の通り(原文のまま)。
季輝が亡くなって1年が経とうとしています。毎日泣かない日はありません。日に日に悲しみが大きくなっていきます。私が泣いている姿を息子も見たくないだろう、と思いますが、季輝の写真を見ると、季輝の肉体がもうないんだ、触れられないんだと改めて感じ、自然と涙が出てきてしまいます。
季輝が使っていたお茶碗(ちゃわん)やコーヒーカップもそのままになっています。季輝の荷物を片付けようとしても、季輝がいた形跡を見る度に季輝を思い出し、手が止まってしまいます。今では、無理に片付けようとはせず、やる気になったときでいいや、と思うようにしています。
季輝は明るくて、誰とでもすぐに仲良くなれる、優しく、気遣いのできる子でした。小学校5年生のころから、ソフトテニスを始め、中学では県で、個人戦ではベスト8、団体戦では優勝するほど上達しました。中学の部活の先生に憧れ、将来は学校の先生になって、ソフトテニスを教えたいという夢を持つようになりました。それから、ソフトテニスの強豪校に推薦で進学し、ソフトテニスに熱心に打ち込む一方で、教育問題にも強く関心を持ち、勉強も一生懸命頑張りました。そして、有名な教育評論家である尾木先生に習いたいということで、高校から1名の推薦枠しかなかった法政大学に推薦で進学しました。念願叶(かな)って尾木先生のゼミに入り、ゼミ長まで務めるようになりました。また、大学でもテニス部に入り体育会本部の役員をやるなど本当に頑張っていました。
季輝は何事にも一生懸命取り組んできました。これまで私から季輝に何かをやりなさい、と言ったことはありません。季輝がやりたい、ということは何でもやらせ、のびのびと育ててきました。季輝が自分で選んで、自分の考えで、ソフトテニスも勉強も人一倍頑張ってきたのです。そんな季輝の頑張りが実を結んで、これから社会に羽ばたいて活躍していく、そんなタイミングであの凄惨(せいさん)な事故が起きてしまいました。
当日、事故のニュースを見て、事故に遭ったのが季輝が乗ったバスかどうか分からない状況でしたが、季輝と連絡がつかなかったため、いてもたってもいられず軽井沢に車で向かいました。軽井沢に着いて、片っ端から病院を回りながら季輝を探していると、警察からバスの乗客名簿に季輝の名前があったと言われました。軽井沢警察署に行き、亡くなった人の洋服の写真を見せられました。季輝の洋服がないように祈りながら見ていくと、最後の頁に、血のついた季輝のTシャツが写った写真がありました。警察に案内されて遺体安置所に行くと、季輝は棺に入っていました。顔を見ると、いつもの寝顔と変わりがありませんでした。一旦(いったん)寝てしまうとなかなか起きない子でしたから、起きて恐い思いをすることもなかったのかなと思いました。
事故の数日前のことです。季輝の手を見て、生命線短いね、なんて話したことを覚えています。今では、それが間違いじゃなかったのかなと思ったりします。
11月6日、季輝は22歳の誕生日を迎えました。でも、私はもう季輝に会うことができません。ある日突然大事な人と会えなくなる、それが事故です。会いたくても会えない。家族を失うことは本当に辛いです。大切な人を失う悲しみを想像してみてください。こんな悲惨な事故が二度と起きないようにするためにはどうしたらいいのか、世の中すべての人が考えてくれることを望みます。