宮川船夫ハルビン総領事=佐藤優氏の著書「私が最も尊敬する外交官――ナチス・ドイツの崩壊を目撃した吉野文六」(講談社)から
「外交文書のコピーをいただけないでしょうか? いくつか確認したい点がありますので」
宮川船夫さんの足取りを伝えた記事はこちら
「処刑されてもいい」 あえて中国に残った外交官の思い
【特集】2017年の外交文書公開
1月12日に外務省が外交文書を公開し、各紙が一斉に報じてから数日後。1通の手紙が届いた。
送り主は宮川浹(とおる)さん(85)。朝日新聞が「邦人保護、奮闘の記録」(デジタル版では「悲劇の外交官」)と報じた元ハルビン総領事、宮川船夫さんの三男だった。船夫さんは終戦直後に旧ソ連に拘束され、獄死した。記事では、その足取りの一部が判明したことを伝えた。
コピーを送ると、今度はメールで丁寧なお礼が届いた。体調が思わしくないとのことだったが、会いたいというお願いを聞いてくれ、2月初めに神奈川県のご自宅に足を運んだ。
浹さんは20年前に定年退職後、本格的に父の足跡をたどり始めた。関係者と連絡を取り、資料を集め、ロシアや旧満州地域を訪問。今回公開された資料にある情報は残念ながら、既知のものばかりだった。
船夫さんの人柄を尋ねると、「きまじめなところがある人でした」と教えてくれた。浹さんと弟は1944年、父のハルビン赴任に同行。「そろそろ寝ようかなと思うと、教科書を持ってこいと言われて英語の発音を直される。ありがたいような迷惑なような。食事の最中に英語の発音を練習させられることもありました」
土曜日にはケーキを買って早めに帰宅するなど、家族思いでもあった。「風呂ではよく調子外れの歌をうたってね。愛すべきおやじでしたね」
1945年夏。ソ連軍が侵攻してくると、父や総領事館員らはバリケードを築いて籠城(ろうじょう)態勢を整えた。邦人保護に「狂奔」する父の姿は、浹さんの記憶に確かに残る。
「あのころ父は、毎日、日本は負ける、日本は負けると……。負けたらどうするかと、いつも考えていたと思う。国のため、後輩のため、心血を注いだ人でした」
高い語学力や情報収集・分析能力を買われ、ノンキャリアながら出世し、難しい任地に派遣された。何度も危険にさらされ、悲運の最期を迎えた。一方で、そばにいた元軍幹部や高位の外交官らの中には、生きながらえて戦後活躍した人もいる。その落差、父の無念を思うたび、浹さんは何度も言葉に詰まり、目元をぬぐった。
浹さんは、まだ明らかになっていない当時の総領事館員の報告書や、父がソ連に捕らえられる前に長年つけていた日記のゆくえを探している。父の獄中記などと一緒に、冊子にまとめたいと願っている。タイトルは「宮川家の100年」にしようと決めている。「我が家もずいぶん不幸な一家だったと思っていた。でもこうして生き残っただけでも、幸せだということになるんだと思います」(下司佳代子)
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政治部兼国際報道部記者・下司佳代子 1982年生まれ。外務省で北米や核軍縮などを担当。昨年末は首相の真珠湾訪問に同行取材。関連文書が公開される30年後の人々が訪問をどう評価するのか気になっている。